羊飼いたちの聞いた天からのメッセ−ジ
するとたちまち、その御使いと一緒に、多くの天の軍勢が現れて、神を讃美して言った。
「いと高きところに、栄光が神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
(ルカ2:13−14)
みなさん、2000回目のクリスマスおめでとうございます
クリスマスそれは神の御子が救い主としてこの世に来られたことを祝う大きな喜びの日です。この喜びの知らせは、ユダヤの国の小さな村ベツレヘムの野原で、羊の群の番をしていた羊飼いたちに最初に告げられました。さらに大勢の御使いが現れ、神の恵みをほめたたえました。軍勢とは6000人の部隊を表すことばですから、6000人の天使の大合唱が野原に響きわたったのです。なんと感動的な光景だったことでしょう。今年の3月にペツレヘムを訪問しましたが、丘陵地には岩を掘り抜いて造った古代の羊飼いたちの家が残されていました。また近くには古代の羊飼いの墓地も発見され、その2つの墓石には「あれを見た場所に埋めてくれ」ということばが刻まれていたそうです。羊飼いたちが野原で聞いた天使の讃美には、2つの大切なメッセ−ジが込められていました。
1 私たちの人生の目的 −−−神に栄光を帰するため−−−
天使たちは地上に住む私たちに「神に栄光を帰し、神をほめたたえるように」と呼びかけています。なぜならば、それが創造主によって無から有へと呼び出されいのちを受けたすべての被造物の存在の目的とされているからです。神は永遠の愛を動機として、明確な意志と目的に基づいてこの世界を創造し完成されました。そして神の最高傑作として創造された人間には、「神の栄光を現す」という最高の目的が賦与されたのです。
ところが人間は先祖アダムが創造主である神に背いて以来、「神ぬきで生きてゆこうとする」傲慢な罪の性質を遺伝的に受け継いでしまいました。神ではなく自分が世界の中心となり、自分の思うように人を支配して生きてゆこうと欲するようになりました。その結果、自分の思うようには決して動いてくれない周囲の人々の間で、争いが生じ分裂が広がり、殺し合いすら行われるようになりました。自分の思うようにならない環境や運命を呪ったり恨んだり絶望するようになりました。こうして深い孤独と空しさの闇が地に住む者たちの心を覆うようになってしまったのです。
聖書は、神の御性質を光として表現しています。ですから神ぬきで生きることは、光を消して生きることと同じです。「すべての人を照らすそのまことの光があって世に来ようとしていた」(ヨハネ1:17)神の御子はまことの光としてこの世に来られました。私たちが見失っていた生きることの真実な意味と目的をはっきりと照らし出すためです。私たちがキリストのいのちの言葉を聞いて、人生の本当の目的を再発見し、神に立ち返り、光の中を歩み出すために。人生の目的が、「神に栄光を帰する」ことにあり、神をほめたたえ大いに喜ぶためにあることを深く心に留めるならば、闇の中を空しく歩むことに終止符が打たれるのです。
「私は世の光です。私に従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」 (ヨハネ8:12)
2 救い主イエスの誕生の目的 −−−地に平和をもたらすため−−−
天使は「地の上に平和があるように」と讃美しました。神の御子がこの世界に来られた目的は、地に住む人々に平和をもたらすためでした。預言者イザヤも700年前に、やがて世に現れる救い主は「平和の君」と呼ばれると預言しています。
「ひとりのみどり子が私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な預言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」(イザヤ9:6)
神の御子は、私たちに「神との平和」「自分との平和」「人との平和」をもたらすために、お生まれになりました。平和という言葉は、和解とも、平安とも訳せますから、私たちが神と和解し、自分自身と和解し、隣人と和解して「魂の平安を得る」ことを指しています。さらに和解するという動詞は、愛すること、受け入れることと相互に置き換えることもできます。神と和解し赦しを受け、神を愛することにおいて成熟してゆくにつれ、ありのままの自分自身を受け入れる心がいつしか広がってきます。そして、自分を受け入れことにおいて柔らかさが生まれるにつれて、隣人と和解する領域がいつしか豊かさをもつようになります。この3つは密接に連鎖しており、愛のトライアングルを形成しています。
ここで大切なことは、この3つの和解の形成は劇的に、瞬間的に、人間の努力次第で、もたらされるわけではありません。「いつしか」、ごく自然に、そしてゆっくり生命的に形作られてゆきます。それは幼子たちの身長がいつしか伸びてゆくのと少し似ています。しかも、完全というゴ−ルは存在しませんから、完全にならなければと自分を追い立て、できていない自分を罰してはなりません。できていないことを数えあげるのではなく、神の恵みの中で、できたささやかなことを素直に喜ぶ「肯定的な態度」で自分をほめてあげること、それが神の御心だと私は思っています。
神との和解
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さああなたは神と和らぎ平和を得よ、
そうすれば、あなたに幸いが来よう。
(ヨブ22:21)
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自己との和解 隣人との和解
キリストは、私たちが神と和解し、神との平和を得ることができるように、私たちの罪、汚れ、背き、不従順、すべてを十字架の上で背負い、身代わりに死んで、償ってくださいました。このキリストの十字架の和解と赦しは、「神の御心にかなう人々」すなわち、「神の御心に生きようと願うすべての信仰者」に無条件で贈り物としてもたらされるのです。
「私たちはこの御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1:7)
この豊かな神の恵みが、御子がお生まれになったクリスマスの日から、すでに私たちのもとに届けられています。宅配便はあなたが受領のハンコを押すまでは、あなたのものとなりません。同じように神の恵みは、信仰によってあなたのものとなるのです。イエスキリストをあなたの救い主として、信仰によって、心にお迎えしませんか。
日本を愛して生涯をささげたフランス人宣教師カンドウ神父が若かった頃のお話です。所属するフランス軍部隊はドイツ軍と塹壕をはさんで激しい銃撃戦を繰り広げていました。たいへん寒いクリスマスの夜でした。一人のフランス軍兵士が、「故郷の教会ではみんなクリスマスの讃美を歌っているだろうな」と思い、ささやくように賛美歌を歌い出したのです。すると次々と仲間の兵士たちも歌い出し、やがて大きな響きとなり陣地内に広がりました。するとどうでしょう。敵軍ドイツ兵たちもその賛美歌に声を合わせて歌い始めたのです。いつしか銃声もやみ、両軍は戦いをやめ、それぞれが自分の国の言葉でクリスマスの讃美を互いに歌い始めたそうです。クリスマスの歌が敵対する二つの国の兵士の心をひとつに結びつけたのです。
クリスマスの讃美は、天地を創造された神が、私たち一人一人を愛し、全人類を祝福しようと、ご自身の御子を世に遣わしてくださったという大きな愛の事実を私たちに語りかけています。罪をとりのぞき、神との和解へと導き、平和をもたらすために、神の御子が世に来られたという慰めにみちた真理に目覚めさせてくれます。2000年前は、天使が讃美を神にささげました。さあ、今年は、あなたが「神に栄光、地に平和」と喜びをもって讃美する時です。
平和をもたらす救い主の誕生を、私たちも御使いとともに喜び讃美しましょう。
2000回目のクリスマスにハレルヤ!
2000年12月21日