「朽ちるものが朽ちないものを着るとき
ルカ24:36〜43
2001年4月29日 主日礼拝
宇治バプテストキリスト教会牧師 小出 隆
目次
序
1章 「永遠のいのちと復活のからだ」
2章 「復活のからだと御国での働き」
聖書研究資料・・・死後のいのちの釈義的、組織神学的理解
序
現代社会は健康ブ−ムです。無農薬の有機作物や自然食への関心も高く、さまざまな健康康食品が販売されています。息子も高校1年から自分で青汁を注文して飲み続けています。けれども私たちは地上の肉体の健康ばかりでなく、もう一つの永遠の人生を過ごす上でなくてはならない新しい体に関しても関心をもつ必要があると思います。
よみがえられたイエスは、弟子たちに40日間現れてその栄光の姿をお示しになりました。幻を見ているのではと驚く弟子たちに対して手足を見せて、肉や骨があることを教え、食事もされ、「復活のからだをもって永遠のいのちによみがえる」という救いを明らかにされました。イエスキリストを信じる者には、永遠の命のみならず永遠の体も与えられます。その目的は、永遠の御国に住んで、イエス様と共に永遠の仕事を果たすためです。
復活のからだが備えられているのは神の国での働きが期待されているからです。ですから、「永遠のいのちとからだと神の御国と働き」が1セットになっています。この4つが揃って、イエスキリストの完全な救いを構成しています。
天国へ行ったらもうゆっくりやすめるのに!と思う人がいるかもしれませんが、天国はどうやら忙しい世界のようです。もちろんイエス様は天国で私たちの目からすべての涙を拭い取ってくださり(黙示21:4)、一切の重荷を解いてくださり、永遠の安息の中に導いてくださいます。豊かな慰めの後に新しい働きも備えてくださるのです。 ときどき次男が部屋でごろごろしながら「ああ暇、やることない」と言います。もし永遠の神の国で何もすることなく永遠に暇ならば、天国は永遠の退屈が待っるだけの間の抜けた国になってしまいます。せっかく永遠の命が与えられながら永遠の暇がまってるだけなら神の国は何と退屈な世界でしょうか。神の国は天のからだを必要とするほど豊かな働きに満ちた世界なのです。
T 永遠のいのちと復活の体
ではどのような永遠の体が与えられるのでしょうか。パウロは1コリント15:36以下で復活のからだについて5つの大きな特徴を明らかしています。
第1は「朽ちない体」(42)です。怪我、病気、衰弱、老化、痴呆、障害、死に2度と支 配されません。死がもはや人間を支配することができないこと、これこそがキリストが十字架と復活によって勝ち得た勝利でした(54〜57)。
第2は「栄光の体」(43)ですから、キリストのような権威と輝きを帯びることでしょう。 第3は「強い体」です。疲れを覚えないほどタフですから力ある働きを担うことができます。心は熱いが体が弱い、これは弟子たちが抱えていた大きな弱点でした。第4は「御霊に属する体」です。御霊の聖さに預かり罪から完全に自由にされます。さらに御霊の愛と真理に預かりますから神の愛と神の知恵に満ちることができます。 第5番目の「天上の体」(49)とは、終わりの日に、この古い世界がリセットされ、新天 新地、すなわち永遠の神の国が新創造される時にふさわしい体の総称を意味します。 生まれながらの「血と肉は神の国を受け継ぐことができません」(1コリ15:50) から、永遠のいのちを受け、神の国に永遠に住むには、それにふさわしい質的に新しい 永遠の体が必要とされるのです。
さらにイエス様は手足の釘の跡をお見せになりました。地上で暮らした身体上の特徴も残されるので、そのためにお互いを認識できると思われます。ある先生たちはイエス様が33才で十字架で死なれ、よみがえられたのですから、私たちも33才の特徴をもってよみがえらされるであろうと考えています。
この世の中には、戦争や事故で行方不明となり遺骨や遺体が見つからずに深い悲しみに沈んでいる遺族もいます。若くして病気や事故で子供さんたちを失った両親もいます。しかし、イエスキリストにあって眠った者たちは、永遠のいのちを受け、永遠の天のからだをもってよみがえることが約束されています。天国では幼い子どもたちも成長していることでしょう。このことを思う時に、希望と慰めを豊かに受けることができます。老いて死ぬ者も、無念の病で倒れる者も、まさかの事故でなくなる者も、生まれた時から障害を持って生きてゆく者も、人生の大半を病気と付き合いながら生きてゆく人もいます。けれども地上のからだのコンディションがいかなるものであっても、神の御国においては、完全な栄光に満ちた復活の体が与えられ、あなたの思いのままに用いて行くことができます。体もその時には、聖められたあなたの心にふさわしい完全な義の器(ロマ6:13)となり、神の栄光をさらに豊かに現すことでしょう。
「兄弟たちよ、眠っている人々については無知でいてもらいたくない。望みをもたない人々の
ようにあなたがたが
悲しむことのないためである」(1テサ4:13)
U 復活のからだと永遠の御国での働き
次に、復活のからだと御国での働きの関係を調べてみましょう。
クリスチャンはイエス様がもう一度この世界に帰ってこられることを待ち望んでいます。これを再臨信仰と言います。聖書によれば、キリストは2段階を経てこの世界に戻ってこられます。1度目は教会をご自身の花嫁として迎えるために天の御座から出て、空中に再臨されます。これを空中再臨と言います。この空中再臨は突如、前ぶれなくやってきます。 この時、旧約時代の聖徒たち、キリストを信じた過去2000年間のすべての人々は死者の中から朽ちない栄光の体をともなって復活します。またその時に生きている信者はすべて一瞬にして天に引き上げられ、力ある御霊の体に変えられます。
「私たちはみな眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとと もにたちまち一瞬のうちにです。ラッパがなると死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」 (1コリント15:51)
特に1テサロニケ4:16〜17は空中再臨と教会の携挙を教える重要な言葉です。「主は号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来 られます。それからキリストにある死者がまず初めによみがえり、次に生き残っている私たちがたちまち彼らと一緒に雲の中に一気に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして私たちはいつまでも主と共にいることになります。」そしてこの空中携挙をもって、私たちの「大きな慰め」(18)
とするようにと神様は語りかけてくださっています。なぜでしょう。
1)教会の完成と栄光
第1に、これは終末の時代に、キリストを信じる者たちの共同体である「教会」が完成し、キリストの花嫁として迎えられる婚礼の時、栄光の時だからです。異邦人のクリスチャンの共同体である教会とイエスをメシアと受け入れたユダヤ人の会衆が和解してひとつとなって一人の人(エペソ2:15)、つまりキリストの花嫁となり栄光の輝きの中で天に引き上げられるからです。この教会の完成をパウロは「清くて傷のない栄光の姿の教会をご自分に迎えるためである」(エペ5:27)と表現し、使徒ヨハネは「ハレルヤ、花嫁の婚礼の時が来て、花嫁はその用意をしたからである」(黙示録19:6〜8)と、この栄光の時について預言しました。これは真実な教会の完成の時ですから、教会に属するすべての信徒にとって大きな喜びであり慰めの時ともなります。
「私が行って、あなたがたに場所を備えたら、また来てあなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいるところにあなたがたをもおらせるためです」(ヨハネ14:3)と言われたイエス様の約束が実現する大きな慰めの時だからです。パウロが「私はどうにかして死者の中からの復活に達したいのです」(ピリ3:11)と切望したのは、この最初の復活(ピリピ20〜21)に預かることを願ったからでした。
空中再臨と携挙は、福音が全世界に宣教され救われた異邦人の数が満ちた時代、そして世界中からイスラエルが約束の地に集められ、その中からイエスをメシアと信じるユダヤ人の数が満ちた時代に入った後、突然、実現します。予兆がありません。ですから目を覚まして備えていなければなりません。いついかなる時かわからないからです。今、イスラエル国内でイエスをメシアと信じるユダヤ人が起こされ4000人近く存在していると報告されています。このようなことは今までになかったことであり、携挙が現実に起こりうる「時代の入口に」入ったことは間違いがないと言えるでしょう。
2)キリストの御国の成就
第2に、再臨されたイエスさまはエルサレムのオリ−ブ山に降り立たれることが預言されています(使徒1:11 ゼカリア14:4〜5)。これをキリストの地上再臨と言います。地上への再臨は、キリストの御国が地上に打ち立てられ、ついにキリストが「栄光の御座」(マタイ19:28)に着座され、王的な統治を開始されることを意味します。キリストの御国が目に見える姿で実現するのですから、異邦人にもユダヤ人にもこれほど大きな喜びと慰めはありません。
ここで終末の出来事をパノラマ的に概観しておきましょう。世の光・地の塩とされている教会が天に携挙された後、この世界に何が起きるでしょうか。
1 教会を真理の光で満たし罪人の心を恵みの光で導かれていた聖霊が去って行かれた後、 この世界は艱難時代と呼ばれる暗黒と堕落の時代に突入します。マタイ24章や黙示録 に預言されているように、最終的にはイスラエルに敵対する国家連合によるハルマゲド ンの戦いが(黙示16:14)、海からの獣、偽預言者、地上の王たちによって引き起 こされ、世界が滅亡寸前まで激しく傷ついた時、ついにオリ−ブ山にキリストが再臨さ れ、諸国民と不信仰なイスラエルを裁かれ滅ぼされます。
2 このキリストの日に、民と不信仰なイスラエルは徹底的な嘆きと悔い改めをもって神 に立ち返り(黙示1:6〜8)、神に背く不信仰な者たちは裁かれて火の池に投げ込ま れ(黙示19:20)、サタンはキリストによって繋がれ闇の力を奪われ一切の活動が 停止させられます(黙示20:1〜3)。
3 その後、千年間、キリストはイスラエルを中心にした地上の王国を樹立され(黙示2 0)ます。パレスティナは永遠にイスラエルの領土となり(エゼキエル47)、エルサレムは唯一の永遠の都、世界の都とされ(イザヤ2:2〜4)、キリストは全世界を平和と義をもってシオンから統治されます。こうして人類が願って実現できなかった、国連ビルの壁に記されている真の平和が、キリストによって実現するのです。
4 さらに、平和の君(イザヤ9:6〜7)であるキリストが着座される「栄光の御座」 (マタイ19:28)を至聖所として、神の手によってエルサレム神殿が再建され、世界中の人々がエルサレムに礼拝に上って(ゼカリア14:16〜19)きます。、こうして神がイスラエルに約束されたすべての祝福が実現します。ますます「水が海を おおっているように主を知る知識が地に満ち」(イザヤ11:9)てゆきます。呪われた地は回復し、自然界、動物界にも大きな変化が生じ(イザヤ11:6〜8 ロマ8:19〜22)、すべての被造物はエデンの園のように麗しさを回復します。
神が約束されたことは文字通りすべてが成就され、神が真実なお方であることが証しされ、神の名が崇められるのです。神の選ばれた民であることのゆえに苦難の歴史を歩ん だイスラエル民族にとっても、そしてキリストを主と告白する信仰のゆえに多くの迫害 の歴史を歩んだキリスト教会にとっても、キリストの御国の完成は大きな慰めとなるのです。
「天よ歌え、地よ喜べ。もろもろの山よ、声を放って歌え。主はその民を慰め、
その苦しむ者を哀れまれるからだ。」(イザヤ49:13)
5 そして、イスラエルへの約束がことごとく成就し神の真実が証しされた後、イエス様 は御国を父に渡され、古い世界は完全に崩れ去り(2ペテロ3:10)、永遠の神の国、 つまり新しい天と地が創造(黙示21:1〜2)されます。この新しい神の国の中心に は、天のエルサレムが聖なる都(10)として建てあげられ、キリスト自らが太陽の光 に勝るところの都の永遠の光として輝きます(23)。こうして人類に対する神のご計画は完全に成就するのです。
3) 御国の王または祭司
千年間のキリストの御国が誕生するとき、あがなわれた信徒たち(携挙されキリストと同じ栄光の姿に変えられた聖徒たち)はどうなるのでしょうか。キリストと共に地上に降り立った聖徒たちは、キリストとともに千年の間、王となり祭祀となり御国を治めます。 「あなたは屠られてその血によりあらゆる部族国語民族国民の中から、神のために人々 を贖い、私たちの神のためにこの人々を王国とし祭祀とされました。彼らは地上を治めるのです」(黙示5:7〜10)。「彼らは神とキリストとの祭祀となり、キリス トともに千年の間、王となる」(黙示20:6)
このような大きな働きを、救われたクリスチャンは御国でになうのですから、力をもつ強い体、御霊の知恵と義に満ち満ちた霊の体、王としての権威を帯びた栄光の体、どこにでも空間を越えて移れる霊の体が必要となります。キリストの王国で暮らす人々も幸福ですが、霊の体が与えられてキリストに仕えて生きる者たちはそれ以上に幸福なことでしょう。くり返しますが、地上の王国での生活はたいへん忙しくなります。蓮の花の上でぼっとしているような時間はありません。喜びに満ちた大きな働きと権威がキリストの御国で一人一人に与えられているからです。復活の体が与えられる意味がここにあります。各自に委ねられたこのような大いなる働きを楽しみ喜ぶためなのです。
イエス様はタラント(マタイ25:14〜30)とミナの例え話(ルカ19:11〜27)を弟子たちに語られました。それぞれが与えられた賜物を用いて神に仕えることが教えられています。主イエスのしもべとして、各自の賜物に応じてこの地上で、福音宣教と教会形成に奉仕することが期待されています。そして地上の奉仕の生活の中で整えられた賜物は、地上に樹立されるキリストの千年王国において、王あるいは祭司としてさらに豊かに用いられこととなります。
「ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の 10人のしもべを呼んで10ミナを与え、彼らに言った。……さて王位を受けて帰っ てきた時…、さて最初の者が現れて言った。「あなたの1ミナで10ミナを儲けまし た。」主人は言った。「よくやった。よいしもべだ。あなたはほんの小さなことにも 忠実だったから10の町を支配する者になりなさい」(ルカ19:12〜17)
キリストは再臨される時に、信者おのおのの行いに応じて報いを与えてくださいます。物質的な富と賜物と機会をどのように用い、主に仕えたか判断されます(1コリン3:11〜15)。そしてまず御国で、新しい町と働きが委ねられるのです。その後、さらに永遠の神の国が祝福の中に用意されてきます。
地上の生活、地上の富、地上の仕事がすべてではありません。天に宝を積み、主のために労した働きは何一つ無駄になることはありません。主は小さな奉仕、隠れた愛の業、密室での祈りを覚えておられ、豊かにキリストの日に報いてくださることでしょう。主がおかれた場所で、あなたに導かれた教会において、あなたの愛する神の家族との交わりの中で、あなたの賜物をもって、あなたの主であるイエス様にお仕えしてゆきましょう。この地上においても、来たるべきキリストの御国においても、そして永遠の神の国においても、主イエスにお仕えすることこそ、私たちの喜びだからです。
「ですから私の愛する兄弟たちよ。堅くたって、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」 (1コリント15:58)
以上
聖書研究資料 死後の魂の行方と神の国の聖書的理解
1 死後の魂の行方 聖書釈義的理解
1) 創造主の御心に人の死は存在しなかった。死は人間の罪によってもたらされた。
「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。あなたは土から取られたのだから。あなたはちりだからちりに帰る」(創3:19) と創造主はアダムの堕落後に宣言された。旧約聖書は、「肉体と魂」という2分法を語らない。霊あるいは息は、人間の全体性とそれを生かす力。神の霊が人を生かしており、神との交わりの喪失は死を意味したる「神がもしその霊をご自分に取り戻し、その息をご自分に取り集められるならば、すべての肉は共に滅び、人はちりに帰るであろう」(ヨブ34:14〜15)
幸いな死者は「先祖たちのもとにゆく」と表現された。先祖たちのもととは先祖の墓への埋葬を指す。「あなたは安らかに先祖のもとにゆきます。そして高齢に達して葬られるでしょう」(創15:15)「先祖たちと共に眠る」(創47:3
)
2) 旧約時代の人々は死者はよみ(シェオ−ル)に行くと考えた。死後の世界の状態は忘却と沈黙、深い穴、深い淵とみなされた。「死にあってはあなたを覚えることはありません。よみにあってはだれがあなたをほめたたえるでしょう」(詩6:5) 「私は穴に下るものと共に数えられ… あなたは私を最も深い穴においておられます。そこは暗いところ、深い淵です」(詩88:6)。「よみとは、世を去った魂が死後に集められる場所である」(カイル&デリッチ)と解釈された。旧約の中で、エノクとエリヤは肉体の死を迎えることなく天に挙げられた特別な予型的人物として描かれている。「エノクは神と共に歩んだ。神が彼をとられたので彼はいなくなった」(創5:24)
3) 新約聖書は、よみに2つの領域があることを教えている。一つは死者のための「とらわれの場」(獄)であり、特に明らかな悪人のためには「苦しみと燃える炎」の場とされている。もう一つは善人のための「パラダイス」(花園)または「アブラハムの懐」(ルカ16:23)と表現されている慰めに満ちた所。十字架上で信仰を告白した強盗に対して「今日、あなたは私とともにパラダイスにいる」(ルカ23:43) とイエスは救いを約束された。
4) キリストの復活後、キリスト者は肉体の死後「キリストのみもと」に行くと考えられるようになった。パウロは死を「キリストと共にいる」ことと表現した(ピリピ1:13 2コリント5:6〜9 )。 さらにパウロは第3の天にあげられパラダイスを見た(2コリ12:4)と語っているように、よみの一部であったパラダイスは、キリストの復活と共に天に移されたと考えられる。その時に旧約時代の義人の魂はキリストの復活と共によみから天に上げられた(エペソ4:8) 。 キリスト者の死に対して「眠っている」(ヨハネ11:11)と表現されるようになった。
5) 教父オリゲネスは、信者は死ぬと天国とは別の「パラダイス」に行くと考えた。殉教者のみが「天国」で神の祝福されたみ姿に接することができると考えた。
6) 旧約の不信仰者は「捕われの霊たち」(1ペテロ3:19)と呼ばれている。イエスを受け入れない不信仰なガリラヤ人は「ハデスに落とされ」(マタイ11:23)、哀れみを示さない金持ちは「ハデスで苦しむ」(ルカ16:23)こととなった。そこで、彼らは最後の審判の日を待っている。最後の日に、よみがえらされ最後の審判を受け、罪に定められた者は第2の死(黙示2:11) を味わう。これは決定的な滅びである。
7) 中世ロ−マカトリックは、天国と地獄の中間領域に「煉獄」があり、死者のための代償的善行によって刑罰が軽くされると説いた。宗教改革者カルバンは煉獄説を「破壊をもたらすサタンの案出」と退けた。
8) 現代神学は、死を神との関係喪失と理解し、神との関係回復の保証としてのキリストの復活の中に、死に勝つ永遠のいのちの希望を見出している(死と葬儀日本基督教団出版 P109) 。 キリストとの交わりは現在の生を意味づけ、生に執着するよりも主に固着して、主の栄光のために生きる姿勢を確立させる(p109)。
2 死後の魂の行方 組織神学的・終末的理解
1) 旧約の聖徒、キリストにあって眠ったすべてのキリスト者(ユダヤ人と異邦人)、はキリストの空中再臨時に、また艱難時代に殉教した聖徒はキリストの地上再臨の時に復活する。これを総じて「第1の復活」(黙示20:5)と言う。キリストの空中再臨の時に生存しているキリスト者は、一瞬にして主と同じ姿に変えられる(1コリント15:52 1テサロニケ4:17 ピリピ3:21)。これを「栄化」と呼ぶ。
2) 救いを受け復活の体を与えられた聖徒は、キリストの地上再臨後に打ち立てられる千年王国において、キリストともに王また祭司として地上の住民を天的方法で治める。このために、キリストの救いを受けたすべての聖徒は朽ちない、栄光の、御霊に属する、力ある、天的な体を有する。「死者の復活も同じです。朽ちるものでまかれ朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえらされ…」(1コリント15:42〜43)
「この第1の復活に預かる者は幸いな者、聖なる者である。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、王となる」(黙示20:6)
3) 千年王国の後、すべての不信仰な人間はからだをともなって復活させられるが、これが第2の復活である。肉体をもって復活させられたすべての不信仰者は、「白い御座」(黙示20:11)で行いに応じて神の審判を受け、火の池に投げ込まれた。これが第1の肉体の死後に待っている「第2の死」(20:14)である。第2の死は消滅や消去ではなく、神の御顔の前から永遠に退けられることであり、「永遠の滅びの刑罰」(1テサ1:9)とも表現されている。死すらもすでに火の池に投げ込まれている(黙示20:24)ので、苦しくても死ぬことさえできない世界とされている。
死後の世界と終末論的理解
パラダイス
空中再臨
十字架 復活 昇天
聖霊降臨 花嫁の婚礼
携挙・復活と栄化 新天新地
御子の誕生 教会時代 地上再臨 永遠の御国
異邦人とユダヤ人 聖徒の王的支配
─────────────────────┤ 艱難時代├───────※・・・・・・
千年王国
旧約 新約 復活後
回復の旧約預言成就 死者の世界 (アブラハムの懐)
黄泉 パラダイス
(御座の裁き) 暗く 沈黙
<深い淵> <深い淵> 全死者の復活
深い穴 ハデス ハデス
(白い御座の審判) 捕らわれた者 捕らわれた者 (未信者) 炎の中の苦悩 炎の中の苦悩 (悪人)
第2の死
火の池
永遠の刑罰