「神の愛と母の愛」 2001年5月13日 

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。(1ヨハネ4:7〜11)


1 母の不完全さ
 若いお母さんたちが苦悩しています。厚生労働省の報告では、親によるわが子への児童虐待が全国で昨年度は約3万件。17才以下の児童の1000人に1・5人の率となり、1昨年の3倍に急増しました。内容的には、身体的虐待51%、ネグレクト(無視、養育放棄など)37%となっており、痛ましい事件が後を絶ちません。自らも4歳になる娘の母親である毎日新聞記者・小国綾子さんは次のように「記者の目」に書いています。「子供を抱こうとすると幼い日に親から受けとめてもらえなかった過去を思い「私だって愛してほしかった」と心の傷がうずく。母親になったことで苦しみが深くなる。母親同士の付き合いができない。心の闇を抱えながら夫や家族に相談できず悩んでいる母親のいかに多いことか。今の時代、母親になることはなんて孤独なのだろう。よくも悪くも現代は母を巡る女性の孤独と戸惑いが共振している。子供は受け入れたもらった実感を得られず、自己肯定感が低いまま大人になることが多い。児童虐待や接食障害などもそんな「振れ」のひとつかもしれない。母を再定義し、母になることの難しさを理解し、共感しあうこと。母だけを追い詰めないこと。みんなで考えたいと思う。」

 結婚し妊娠し子供を出産すれば誰でも「母親になり父親になる」ことができますが、「母」となり「父」となって子供と向き合って共に生きることは別のことであり、たいへん難しいことです。育児書と首っ引きで子育てしてもやはりうまくいかずに悩むに違いありません。もしコンピュ−タ−で子育てをさせたら「理解不可能」とフリ−ズしてしまうに違いないと思います。人間は子供のときも大人になっても、老人になっても、不完全で弱く、理想的な歩みなどできない者です。それは蟹の親が子供にまっすぐな歩み方を教えようとしてるのに、横歩きしかできないのと似ています。親になることは本当に難しいことです。あの内村鑑造でさえ、「完全なる家庭を作るは完全なる人を作るがごとく難しい。われまず完全ならざればわが家庭の完全なる理由の存するなし」と正直に告白しています。

 小国記者がレポ−トしているように、自分自身が幼児期に抱えた親子関係上の未処理の傷が心の奥に横たわっていると、家族という密度の濃い人間関係の中では表面化しやすいと心理学では言われています。私自身もいつもこれでいいのかと迷いながら悩みながら「父」を20年してきました。それは家内も同じであったと思います。でも、「子供は大丈夫。自分の道を歩む力がある」と子供を信じてやってきました。子供は決して親と同じ道を歩くわけではありません。自分の弱さをそのまま子供に重ねてしまえば不安と自身喪失が増幅されてしまいます。しかし「子供は子供の道を行く、大丈夫」と子供を信じることで、自分がひきづっている自己否定からも解放されると思います。その上なりよりも、聖書は「成長させてくださるのは神です」とのすばらしい約束を教えてくれています。このみことばを信頼し、「成長させてくださる神」に我が子を委ねることができることはなんと大きな幸いでしょうか。

2 母のすごさ
 さて少し角度を変えてみましょう。たとえ不完全な母であっても、わが子を守りかばう時にはすごさを示すことを私たちは見聞きしています。不思議ですが、事故などで子供を守るのはたいてい母親です。命を守るという本能が働くとき母は強くなるからでしようか。1987年8月デトロイド空港で航空機の墜落炎上事故が起き、全員が死亡しました。しかしただ一人、4才の少女セシリアちゃんだけが奇跡的に救出されました。とっさに母親が娘の上に覆い被さって、背中が炭化するほど焼けこげながら炎から我が子を守ったからでした。炎の中でも子供を離さず抱き続けた母親のすごさに感動します。

 さらに子供のために自分のプライドを捨てることができた時にも、母はすごい母になります。自分のプライドを捨てられない母は、子供よりも周囲の目を意識して子供を守れなくなり、子供を心理的に見捨ててしまうことになります。私が知っているある主婦は、中学生の息子が仲間と一緒に警察に窃盗容疑で補導された時、「申し訳ありません。私がいたらなかったためです。こんなことを2度と起こさないようによく言い聞かせますので、今回はお許しください」と土下座して謝まったそうです。一方、他の母親たちは自分の子供を罵倒しなじり続けたそうです。ただ一人土下座して謝る母親のその姿を見て友人たちが「お前の母親はほんとうにおふくろだな」と言いました。その友達の言葉を聞いて彼は、「こんなおふくろをもう悲しませるのはやめよう」と改心したのでした。見栄だの、世間体だのにとらわれて大切な自分の子供を見失ってはなりません。親がプライドを子供のために捨てることができるなら、親のその姿勢は本物の愛として子供の心にきっと届くことでしょう。

 戦後生まれの私たちの世代は物が無い中で育ちましたから、子供たちにはそんな思いをさせたくないとつい過保護になりがちです。いろいろ身の回りの世話をし、不自由しなくてもいいようにと金を与え、物を買い与えますが、子供は「そんなことは生んだ以上は当たり前。親には養育義務がある。」といわんばかりの感覚になって感謝しようとしません。むしろ、裕福な他人と比べて「うちの親は何もしてくれへん。 〜ちゃんの家に生まれたらよかった」などと文句ばかり言う。親もだんだん腹が立って「こんな子産まんかったらよかった」などとつい口走ってしまいがち。つまり「物」はどんなに多くもらっても、すぐに当たり前の世界になってしまい、心からの感謝とならないのです。しかし、母がプライドを捨てて本気で子供に接してくれたならば、それを思い出した時に大きな感謝がわきあがってくることでしょう。母の愛に対する感謝は尊敬になり、いつまでも心に残ることでしょう。

3 神の愛が根底に
 愛がなければ人は生きてゆくことができません。そして私たちは母を通して最初の「愛」を人生で学びました。母の中にある愛はじつは神から来ていることを覚えたいと思います。
 1)聖書は、「愛は神から出る」と教えています。
この世の中には愛は欲しいが神は要らないという人がいます。愛だけは激しく求めるけれど神は拒むというのが現代社会の特徴と言えます。神を拒んで愛だけ求めるから傷つき、空しさと欲求不満に陥るのです。言い換えれば「神と共に愛がある」のです。両者を分離してしまうところから愛の不毛状態が生じてきます。ですからどんな人間関係であれ、私たちが問題を感じその解決を願うならば、ここに帰る以外に答えは見つかりません。あなたが神のもとに立ち返るなら、真実な愛を神の中に見いだし、解決への一歩を踏み出さすことがおできになると思います。

 2)聖書はさらに「神は愛である」と教えています。
神は愛を本質とされています。愛を要求する神々はこの世の宗教に多く存在しています。そのような宗教では、神が信徒に犠牲を求め、忠誠を求め、服従を求め、お金を求め、布教や奉仕活動を果てしなく求めます。しかし、イエス様は我々に「愛を求める神」ではなく、「愛を与える神」を知らせてくださいました。なぜならば神は愛を本質とされており、愛の泉そのものとなっておられるお方なのですから、愛を人間に要求される必要などありません。不完全な人間の愛を要求などされません。むしろ真実な愛を私たちに与えようとなさっています。むしろ私たちが神の愛を受け取ることを願っておられます。聖書の神は、「愛を与える神」だからです。

 3)聖書はさらに「ここに愛がある」とカルバリの丘の十字架を指さしています。
神はご自分の愛を具体的に表現してくださいました。愛を感じたり愛のことばを聞いたりするだけではなく、愛を見ることができるようにしてくださいました。神の御子が十字架で罪の罰を身代わりとなって受けて死んでくださることによって、死に定められ滅びゆく者たちに永遠のいのちを得させてくださいました。カルバリの十字架は、神のほとばしるような愛の目に見える噴火口であるといえます。カルバリの丘の十字架、ここに神の愛を誰もがはっきりと見ることができます。
 愛は見る形で表現すること、その努力を怠ってはならないと思います。母の日、母へのあなたの愛を、目に見える形で豊かに表現してみませんか。

 4)聖書は最後に「互いに愛し合おう」と愛の交わりに招いてます。
7節では「互いに愛し合いましょう」と呼びかけていますが、10節では「愛し合うべきである」と強調されています。愛は感情の世界で受入れ分かちあうものであり、さらに他の人々の間に輪を広げてゆくこともできます。一方で、しばしば意思の世界で愛は働かせるべきものだともいえます。前者はやさしさと思いやり、後者は決断と行動を生みます。「べきの愛」はしばしば大きな力となることがあります。

 神戸にあるパルモア病院の三宅廉先生は、小児科医として大学で教えていましたが、未熟児で生まれた子供たちが生育不能と最初から判断され何の手当も受けないまま放置されて死んで行く姿を見て心を痛め、赤ちゃんを救いたい、いえ救わなければならないと決心して大学教授の地位と収入を捨てて、新生児医療の未知の世界に進みました。それは想像を越えた苦難の道でしたが、志を同じくするスタッフに支えられ、多くの未熟児たちのいのちを救い、新生児医療という新しい分野をきり拓き、87歳になられるまで第一線に立ち続けました。クリスチャンでもある三宅先生は、いつも笑顔が絶えない優しい先生でしたが、赤ちゃんを助けるというその意思は強靱でした。どんな試練にもぶれませんでした。愛は、「互いに愛しましょう」というやさしさの輪への招きであると共に「互いに愛すべきである」という強い意思に基づいた決断と行動の世界でもあることを、三宅先生の生き方から私たちは学ぶことができると思います。

 母の日の今日、私たちはあらためて母を愛することを学ばせていただきましよう。すでに母がなくなっておられ方もおられると思います。それでも、想い出の中の母を愛することはできます。もし心の中に母への隠れたわだかまりがあるならば、今、主の赦しを祈りましょう。主の赦しを仰ぐとき、あなたの深い心の傷も癒されると信じます。神の愛の現れがカルバリの丘であるならば、あなたの母への愛の現れの場はどこでしょうか。あなたが愛に生き、赦しに生き、和解に生き、愛の行動に生きる場所はどこでしょうか。あなたが目に見える愛を示す場所はどこでしょう。

 神の愛があなたを包んでくださるように、あなたの心の傷が癒されますように、そしてあなたの愛が豊かに表現されますようにと、心からお祈りいたします。

     「私たちは私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は
          神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」(1ヨハネ4:16)