クリスマス説教 
2003年12月14日

「あなたのできうるベストをイエス様に捧げよう」 マタイ2:1−12

「すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」(マタイ2:9-11)

クリスマスの有名なシーンの一つに、東方の国からはるばる砂漠を越えてやってきた博士たちの物語があります。ここには3組の人物が登場します。東方の博士たちとユダヤ国王ヘロデとナザレの村の住むヨセフとマリア夫婦です。

1 ヘロデ王

ユダヤの国に到着した博士たちはまず都エルサレムを訪ね、ヘロデ王に面会を求めました。一国の王に面会を求めるのですからただでお城に入れるはずがありません。多くの貢物を届けて、謁見許可を得たはずです。博士たちが「ユダヤ人の王の誕生を告げる星を見たので、会いに来ました」とヘロデ王に告げると、王は「恐れ惑う」ばかりでした。彼はつねに暗殺の恐怖に怯えていたからです。身の危険とヘロデ王家の存亡の危機を覚えた王は後に、「2歳以下男の子を皆殺しにせよ」という恐ろしい虐殺命令をくだしました。

この世には、ヘロデ王のように、せっかく救い主の誕生、まことの王の誕生の知らせを聞く機会が与えられていながら、信じようとせず頭から拒む人が多くいます。中にはあからさまに激しく憎むものさえ現れます。新しい王の存在、つまり、神の存在を受け入れ、自分の心と生活の王座にお迎えしようとすれば、自分中心に生きてきた今までの生きかたが根こそぎ覆されてしまうと感じるからです。居心地が悪くなるのです。ですから自分にとって都合の良い無神論に逃げ込む人も少なくありません。

救い主キリストを拒むならば、罪と滅びが待っていると聖書は教えています。歴史資料によれば、疑い深く残忍なヘロデ王は自分の妻や子どもさえ謀反の疑いで次々殺し、70歳で死ぬ5日前でさえ、最初の妻の長男を殺害しました。彼は心の安らぐときのない血なまぐさい一生を送りました。地上の最後の仕事が実子殺しとはなんという悲劇でしょう。[] 皇帝アウグストもヘロデ王の実子殺しにはあきれ果て「余はヘロデの息子(ヒュイオス)であるよりはヘロデの豚(ヒエス)でありたい」と叫んだことを歴史家は記録しています。神様を抜きにした人生には、不信と疑いと恐れが満ちてきます。そのことをヘロデ王の生涯が端的に物語っています

2 ヨセフとマリア

王の宮殿を後にした博士たちは大きな星に導かれベツレヘムに向かいました。ヨセフとマリヤが借り受けた小さな家を探し、訪れました。そこにはマリアに抱かれ安らかに眠る幼子イエスの姿がありました。ヨセフとマリヤは博士たちの訪問を快く受け入れました。「星がユダヤ人の王の誕生を示しました」というかれらの知らせを聞き、博士たちの「大きな喜び」をともに分かち合ったことでしょう。ヘロデ王の道が恐れと疑いに満ちたものであるならば、ヨセフとマリアの道は大きな喜びをともに分かち合う幸いに満ちたものでした。

イエス様の前に進み出た博士たちは、「黄金、もつ薬、乳香」という当時としては最も高価な贈り物を捧げました。この贈り物はヘロデ王の追手からヨセフとマリヤが安全なエジプトの地に逃れ、およそ2年間そこで親子3人が慎ましく暮らすために十分な生活費となったと思われます。

救い主を信じる者たちは、どんな試練にあっても神さまのご配慮のなかで守られます。貧しい大工のヨセフに2年間もエジプトで暮らす資金などあるはずがありません。主が守り備えご用意てくださったのです。「主の山に備えあり」(創23:14)と記されているように、神は信じ従う者の必要を思い以上に豊かに満たしてくださるお方であることを知り、思い煩いのすべてを委ねましょう。

救い主を信じてヨセフとマリアの道を歩むのか、救い主を拒んでヘロデ王の道を進むのか、私たちは聖書から問いかけられています。マリアの道には喜びと神の守りがあり、ヘロデの道には恐れと迷いと罪があります。あなたはどちらの道を歩むことを願われますか。

3 博士と贈り物

さて、救い主を信じるもう一組の人物、東方の博士達に着目いたしましょう。3組の人物が登場します。彼ら博士たちは東の国、おそらくペルシャの国からの来訪者と思われます。むろん彼らはユダヤ人ではなく異邦人でした。しかし異邦人でありながら彼らは救い主、まことの王、世界の支配者を訪ね求めていました。彼らが王の誕生を知った手段はペルシャの星占いでした。彼らの知識は「ユダヤ人の王の誕生」という限定的な不完全なものでした。しかし彼らははるばるユダヤの国を目指して旅たちました。行動力がありました。しかも、約束された救い主にお会いできたとき、彼らは自分たちの社会的な身分、高度な学識をもっていたにもかかわらず、「幼子イエス」の御前に「ひれ伏して拝みました」。人が神の前にひざまづき礼拝をささげる姿こそ、もっとも気高い姿であり、神が尊ばれるすがたです。

傲慢なヘロデ王は人にひざまづかせることはできましたが救い主の前にひざまずくことはできませんでした。この世の出世のためにロマ皇帝やエジプトの女王クレオパトラの前ではひれ伏すことができましたが、幼子イエスの前でひれ伏すことなど考えたことさえありませんでした。傲慢な心では、神を礼拝することはできません。神の御前に近づくことができないのです。いいえ、許されないのです。ヘブル語でひざまずく、ひれ伏すということばは祝福ということばと語源が同じでそうです。神が祝福される者は神の前にひざまづくことができる人々、礼拝者たちであることを覚えましょう。

さらに、真の礼拝者たちは、救い主イエスに、最高の宝物を喜んで贈る心をもっています。礼拝をささげる者は同時に救い主のために喜びをもって捧げることができる人々でもあります。

博士たちの捧げ物は、ヨセフ家の家宝として代々大切に保存されたのではありません。それらはお金に換えられヨセフ一家のエジプトでの生活を支え、幼子イエスを安全に守りはぐくむことに用いられました。もしそうでなければ、イエス様のいのちは奪われていたかもしれません。そうであれば30年後のイエス様の宣教も十字架の身代わりの死も復活も、いいかえれば神の救いのご計画そのものが崩れかねなかったと人間的な推論を立てることもできます。かれらの捧げ物は神さまの大きな御業の中でなくてならない尊い役割を果たしたのです。エジプトで宮殿を買うほどの大金ではなく、エジプトに急いで逃れる旅の費用、ヨセフ1家が慎ましくエジプトで暮すに足りるだけのものだったことでしょう。しかし神のご計画のためにどんなに大きな価値をもっていた捧げ物だったことでしょうか。

救い主のために、喜びをもってささげられたものを神は豊かに用いてくださいます。ですから主のために喜んで贈り物をたずさえ、御前にひざまずきましょう。多くの贈り物をいただくクリスマスの季節ですが、何よりも救い主イエスさまにあなたの良き物を、最高の贈り物をおささげしましょう。

クリスマスにちなんだ小話しをして終わります。ヨセフとマリアがイエス様を抱いて急いでエジプトに逃れる途上、ヘロデ王の追っ手がついに追いついてきました。とっさにヨセフは岩の洞穴に身を隠しました。しかし余り奥が深くありませんから、兵士たちが中に入って探しだせば、すぐ見つかってしまいます。しらみつぶしにヘロデの兵が洞窟の中を探しまわっています。そしてついに、ヨセフとマリヤが潜む洞穴にも追っ手が剣をもって入り込んできました。息をひそめるヨセフとマリア、まさに危機一髪。

そのとき兵士が上官に向かって言いました。「ここにはだれもひそんでいる気配がありません。入り口に大きな蜘蛛の巣が張られているからです」「それはもっともだ、よし、他を探せ」。追っ手たちは立ち去ってゆきました。そのとき、天使たちだけに聞こえる小さな声で、洞穴の小さな蜘蛛たちが言いました。

「よかったね。こんな小さな僕たちでもイエスさまのお役に立てたよ」「そうだね、一生懸命、がんばって糸を出して大きな巣をすくったものね」

クリスマスツリーに金や銀のモールをかけるのは、イエス様を守るために蜘蛛たちが張った糸と巣を意味しているのでと言われています。

あなたにできるベストなことを救い主イエスさまのために捧げましょう。
クリスマスの恵みがあなたの上に豊にありますように。


[]弓削 達 (ゆげ とおる) [ロマ帝国とキリスト教]

へロデは残酷無残な暴君であった。「キツネのように王位に忍び込み、トラのように支配し、犬のように死んだ」とある歴史家は評した。

アントニウスはクレオパトラにユダヤのエリコ地方を贈っていたので、ヘロデはクレオパトラに税をはらわなくてはならない従属王であった。クレオパトラがヘロデを恨む気持ちはおさまらなかった。しかし、巧みにアントニウスからオクタビアヌス派に乗り移ることができ、保身と領地を拡大できた。

皇帝アウグストもヘロデ王の実子殺しにはあきれ果て「余はヘロデの息子(ヒュイオス)であるよりはヘロデの豚(ヒエス)でありたい」と言った。(p220)