2003年度 母の日の礼拝 5/10/2003主題 「母の愛、神の愛、人を生かす愛」
母の日は世界中で祝われています。父の日は余り浸透しませんが、痛みをこらえて出産し、この世に一人の人間として送り出し、わが身を削って育ててくれた母への感謝は人類共通の思いだからだと思います。父がいて兄弟がいて祖父母がいても、母親の存在はどこか魂のふるさとのようなぬくもりがあり、なく尊いものです。そして私たちは母を通して「愛される喜び」を人生で経験し、心の力としてきたのではないでしょうか。
ある時、一人の牧師先生が自分の子ども時代の思い出を語ってくれました。小学生の時、クラスの友達が新しい自転車を買ってもらったというので自慢して乗っていた。自分も貸してもらって乗っていたけれど、だんだん悔しくなって腹が立ってきた。それでとうとう波止場に来た時に、海の中に自転車を投げこんでしまった。家に帰ってきてから「たいへんなことをしてしまった」と心が責められ、とうとうお母さんに打ち明けたそうです。するとお母さんは、黙って納屋から縄を持ち出し「母ちゃんについて来い」と言う。港のどこから投げ込んだのか教えなさいと言うので自転車を投げ込んでしまった場所を教えると、「自分のからだにロ−プを巻け」「母ちゃんがロ−プの端を持っているので安心して、今から海へ飛び込んでもぐって自転車を見つけて来い」と真剣な顔で迫る。飛び込んでもぐって自転車を見つけ、ロ−プを自転車にくくって、母親と一緒に岸壁に引き上げたそうです。
家に帰って水で自転車を一緒に洗ってくれて、丁寧に拭いてから「今から友達に返してきなさい」とだけ言って見送ってくれた。悪いことをしでかしても怒りもしなければ叩きもしないけれど自転車に返しに行く途中、なんか涙がこぼれてきて仕方なかったそうです。この出来事を通して、先生は「自分の行いに責任を持つこと」の大切さを学び、「母親の愛」を深く知ったそうです。
多かれ少なかれ、私たちはどこかで母親の愛を経験し、自分の生きる力とさせていただいているのではないでしょうか。母の存在は、私たちが人生で最初に愛を学ぶ学校のようなものといえます。学校なら卒業式があり、あらためて「先生ありがとう」と言う機会がありますが、母親にはなかなか「ありがとう」と言う機会がありません。
あらためて今日、母の日に「かあさんありがとう」とことばを送りましょう。
さて、母親は私たちが愛を最初に学ぶ学校のようなものだといいましたが、中には、うまく母親の愛情を得らなかったというケ−スもあります。口うるさくガミガミと怒るばかり、でいつもあんたはダメと否定されてばかりで、ほめてもらったり認めてもらったことが無いとか、いちいち口出しして過干渉で支配的で好きなようにやらせてくれないとか、反対に共働きで忙しくほったらかしにされたとか、嫁ぎ先の姑とうまくいかなくてそのイライラを当り散らされたとか、ご主人とうまくゆかなくてお父さんの悪口をさんざん聞かされたという話しもよく聞きます。ひどい場合には母親としての養育を放棄してどこかに捨ててしまう場合もあります。最悪の場合には餓死させたり折檻や虐待して死に至らしめたりしてしまうことさえ起こります。
一時、子どものあらゆる問題の原因はすべて母親にあるとして「母源病」というような間違ったことばが流行したことがあります。なぜ、母が干渉的なのか、支配的なのか、ありのままほめたり認めたりできないのか、愛情をそそげないのか、それは母親自身もまた幼いときにそのような経験を受けていなかったからというような世代間の問題に起因する場合も少なくありません。母がどのような時代にどのような家庭環境で育ったかという個人的な歴史を知ると、今まで気づかなかった一面が見えてきて、理解できたり赦せたりして、責める気持ちが和らぐことがあります。
父も母も考えれば人間としてはまだまだ未熟な20代で結婚し、親となり、子育てをしてゆくわけですから、完全でありえるはずがありません。子どもの成長は早いけれど大人の成長は遅いのです。体の成長は早いけれど心の成長はそうはいきません。ですからつらい現実ですけれど、親の中に完全性や完璧性、理想を求めすぎたり、ましてや「こうあるべきだ」と要求しすぎてはならないのです。
真実な愛、完全な愛、それは神の中にのみ存在します。聖書は「神は愛である」(1ヨハネ4:7−8)と神の永遠の御本質を教えています。このことばは私たちに聖書の神、天の父なる神の中にのみ、私たちが慕い求める真実な永遠の愛があることを教えています。ですから神様の中に愛を捜すのです。そうすれば幸せになります。最高の愛を神の中に見出すことができるのですから、その人が幸せになれないはずがありません。
わたしたちは、しばしば「愛は神である」と考え、自分を幸福にしてくれる愛を人間の中に求めようとして、裏切られたり挫折したり傷ついたりしてしまいます。ですから人間の中に真実な完全な愛を求めたり要求するかわりに、お互いの持つ不完全さや弱さを理解し赦しあうことを学ぶときに、傷つけあうことから救われ、受けた傷も癒されるのです。
1コリント13章は「愛の賛歌」と呼ばれ、キリスト教の結婚式では朗読されます。
1−3 節では、すべての霊的な賜物にまさって愛が「大きな価値」を持っていること、
4−7節では、愛の持つすばらしい「力と性質」、
8−13節では、愛がいつまでも続くという「永続性」について語られています。
天使たちの言葉と呼ばれる異言を語ったり、預言をする力があったり、特別な霊的体験や学者顔負けの神学知識や奇跡を起こす祈りの賜物をもっていても、さらに自分の全財産を施したり、火あぶりさえも恐れない殉教精神に満ちていても、もし「愛がなければ」すべては無に等しく何の役にもたたないとパウロは教えています。神の愛に根ざした交わりこそが教会の基礎です。だからパウロは、教会をキリストの「愛」に根ざした「信仰」の共同体、そしてキリストの再臨を待ち望む「希望」の共同体として建てあげてゆくことを願い、神の御心と信じたのです。愛が無ければすべては無益である、このことばは親子関係、夫婦関係、兄弟関係、隣人との関係など、あらゆる「交わり」においても共通する一つの真実だと思います。
この4−7節には合計14の愛の性質と多様な豊かさが記されています。
この14の愛の性質にことさら説明はいらないと思いますが、3つだけ説明します。
無作法(アスケ−モネオ−)は他人に迷惑をかけるような言葉や態度や格好をすることです。つまり身だしなみを整えることです。いろいろなエチケツトを守ることに気を配ることです。しのぶ(ステゴ−)は、屋根ということばが語源ですから、支えたり覆ったりするという意味です。「愛は多くの罪をおおうものである」(1ペテロ4:8)と教えられているように、雨に打たれている人の傘となってあげること、寒さに凍えている人のテントになってあげることといえます。秘密は守り、噂話は自分のところでとめ、不利なこと、悪口、陰口を言われても、過敏に反応したり、自分もまけじと相手の悪口を言いふらしたり暴露したりせず、大きな屋根裏にすべてをじょうずにしまいこむような大人の態度を指しています。最後の「耐える」は、特に将来予想されるできごとに対していたずらに不安になったり焦ったり心配したりしないでおおらかにうけとめてゆく、見守ってゆく態度をさしています。「愛は心配しすぎない」と置き換えてもいいかもしれません。親という漢字は、「木上にたって見守る」と書きますが、漢民族の古代からの知恵かも知れません。せかせかこまごませずに信じて大きく見守ることが真の意味の忍耐なのです。
聖書の生きた読み方を紹介します。「愛」の代わりに「私は」と置き換えて読んでみてください。「あの人は」と他人の名前をいれてはいけません。最後まで「私は」と置き換えて読んでみましょう。そして心の中に響く声を聴いて「◎、○、△、×」と自己評価してみましょう。ある牧師が礼拝でこの箇所を朗読していたら出席していた牧師の幼い子どもたちが「パパ違う、パパダメ、ペケ」と小声でささやきあっているのでその周りがくすくす笑いに包まれており、牧師は穴があったら入りたくなったそうです。いかがですか。
このように読んで見ると自分がどんなに愛が乏しく貧しいかがわかります。でも何と感謝なことでしょう。そんな愛のない私たちを、神は一人子を十字架で身代わりに死なせるほど愛してくださり、罪を赦し、救いへ導き、永遠のいのちを与えてくださったのです。
さて聖書の生きた第2番目の読み方を紹介します。14の愛の多様な豊かさのなかから自分が足らないなと教えられた項目を1つだけ選んで、大切にしようと決心し、聖霊の助けを頂いてください。子どもにしつけをするときのコツは「1点主義」と言われます。一つのことだけ強調して繰り返し教え、うまくできればほめてあげ、その代わりに他のことは目をつむるのです。ところが不思議なことにひとつのことができればほかのことまで自然に身についてゆくからです。私たちが愛を学ぶのも1点主義でいいのです。
この14の愛の性質に説明はいらないと思いますが、無作法(アスケ−モネオ−)は他人に迷惑をかけるような言葉や態度や格好をすることです。身だしなみを整えることです。いろいろなエチケツトを守ることに気を配ることです。
しのぶ(ステゴ−)は、屋根ということばが語源ですから、支えたり覆ったりするという意味です。「愛は多くの罪をおおうものである」(1ペテロ4:8)と教えられているように、雨に打たれている人の傘となってあげること、寒さに凍えている人のテントになってあげることといえます。秘密は守り、噂話は自分のところでとめ、不利なこと、悪口、陰口を言われても、過敏に反応したり、言いふらしたり暴露したりせず、大きな屋根裏にじょうずにしまいこむような大人の態度といえます。
最後の「耐える」は、特に将来予想されるできごとに対していたずらに不安になったり焦ったり心配したりしないでおおらかにうけとめてゆく、見守ってゆく態度をさしているといわれています。「愛は心配しすぎない」と置き換えてもいいかもしれません。親という漢字は、「木上にたって見守る」と書くのは漢民族古代からの知恵かも知れません。
愛は信じることと実践された婦人を紹介します。大阪に住むAさんは2人の子どもの母親です。やんちゃな次男が警察に他の仲間と補導され、親が呼び出されました。警察に駆けつけた親は子どもを見て「また人様に迷惑かけてバカ、あんたなんか知らない」とか「何度親を困らせたら気が済むのや」と頭ごなしに叱り付けたそうです。ところがAさんは刑事の前で土下座して「私がいたりませんでした。2度とさせませんので今回は寛大に処置してやってください」とわびたそうです。その姿を見て仲間が「お前の母ちゃんは本当におふくろやな」とうらやましそうにぽつりと言ったそうです。そのとき以来、彼は心をいれ変えてまじめになったそうです。母の愛が子どもの心を砕いたのでした。我が子を信じぬく母の姿がそこにはありました。愛はすべてを信じることです。
愛のあり方は多様です。子どものために土下座して謝ってくれる母もあれば、我が子を海に潜らせる母もあります。ありかたは違ってもそこには母親の精一杯の愛があり、その子を生かす愛があります。母の愛はこどもを生かす愛であり、それは永遠の神の愛のひながたとなっています。十字架にそのひとり子をつけて死なせるほどに、惜しみなく罪人の私たちを愛してくださった天の父なる神は、すべての人間を永遠のいのちに生かす真実な愛をもっておられます。ですから神の愛の中に生きる力と喜びを祈り求めてまいりましょう。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。ここに神の愛がわたしたちに示されたのです。」(1ヨハネ4:9)
祈り
この母の日にもう一度、愛の価値と愛の豊かなありかたを教えてくださり感謝します。愛の貧しさ、乏しさを覚えるものですが、聖霊の助けと導きを与えてひきあげてくださることを心から感謝します。