2003年度 幼児祝福式礼拝説教 6/14/2003
「さあ、幼子を神のもとに」 ルカ18:15−17
今年も幼児祝福式礼拝をささげます。日本には宮参りや753詣と言うような子どもの健康と成長を願う儀式があります。イエスの時代には、モ−セの教えに従い、生後8日目に割礼が施され、男子の場合は41日(女子は81日)間の「清めの期間」が終わった時,両親は神殿に参拝し、犠牲の供え物を携えて幼子を神におささげする習慣がありました(ルカ2:22)。イエス様も神殿に昇り,祭司からの祝福をいただきました。
今日、キリスト教会において、子どもの日が定められ、この日、子供たちは花を持参して自分の代わりに神様におささげし、感謝と献身の心を表す習慣があります。
子どもの日の礼拝には2つの意義があります。
1 幼子も救いを受ける特権が与えられている
2 いのちの尊さと人生の意味を学ぶ
1 幼子も救いを受ける特権が与えられています
お弟子たちが子どもを遠ざけようとしたとき、イエスは弟子たちを叱り幼子を招きました。イエス様は、親たちにも弟子たちにも「子供たちを私のもとに来させなさい」と命じました。親や弟子たちには「行かせる」義務があるとさえ受け取れます。むりやり「連れて来い」とは言われませんが、子供たちが「来たくなる」ようにあらゆる工夫をして来させなさいと命じておられます。さらに「とめてはならない」とも強調されました。もし子供たちが神のもとに来ることを妨げるようなことがあれば、万全を尽くしてその障害を除きなさいとも受け取れます。ここでは子どもの救いに関して常に「積極的」であることが求められていると思います。
大野教会が1984年に献堂式をしたきっかけは増えてきた教会学校の子供たちのために、広い部屋を用意してあげたいという先生たちの願いが始まりでした。イエス様は子供たちを愛されました。その子供たちを大切にできる教会は必ず祝福されるのです。
子どもが招かれる理由は、「神の国は彼らにも備えられているからです」(16)。
子供たちが天国に入れるのは、彼らが「神の国を受け入れる」(17)ことができるからです。
子どもは大人のように神のことばを知的に十分理解することはできないかもしれません。しかし子供たちは大人以上に、すなおに「神の国」を「受け入れる」ことができます。あれこれ理屈をつけたりこねくり回すことはしません。聞いたみことばをそのまま受け入れることができます。大人以上に子どもは豊かなイマジネーションをもつことができます。大人のように理屈や常識や既成概念にしばられません。目に見えないものを信じ受け入れる能力は大人以上に優れています。
信仰とは、「受け入れる」ことだとヨハネは教えています。子どもだから無条件で天国へ行くとは聖書は教えていません。「神様と神の国のすばらしさ」をそのまま素直に受け入れる、信仰の原点を彼らは持っているのです。
「しかしこのかたを受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子の特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)
子どもはみんな大人になるわけではありません。子どものガンや事故で幼くしてこの世を去って行く子供たちも多くいます。子どもは抵抗力が弱く、無防備な分、危険度もおのずと高くなります。
かれらにもイエスキリストの救いと天国の希望が必要なのです。イエス様は大人のためにだけ、十字架にかかられ身代わりに死なれたのでしょうか。いいえ、幼子にとってもイエス様は救い主なのです。イエス様が誕生されたとき、ヘロデ王によって2歳以上のベツレヘム近郊の子供たちのいのちは奪われました。ですからイエス様は幼子たちの救いに大きな愛を注がれるのです。幼い子供たちの救いのために祈りましょう。幼子が礼拝を捧げることができるようにと奉仕してくださっている兄姉に感謝しましょう。子供たちに礼拝や学びのための場所が提供できるように祈りましょう。
2 いのちの尊さと人生の意味を学ぶ
教会の祝福式は、子供たちの献身の時でもあります。神様に自分自身と自分の賜物をささげて、神の栄光のために生きて行く事を幼いときから学ぶ大切ないのちの教育のときでもあるのです。
リビングストーンはアフリカ大陸を冒険しヨ−ロッパ社会に紹介した探険家であり宣教師でした。
彼はまだ幼いとき、貧しくて教会で献金をささげることができませんでした。そこで彼はある時、献金のための御盆を下においてもらい、その上に乗って「神様、何もありませんから僕自身をささげます。御心のままにお持ちください」と祈ったそうです。
幼い子供たちに「もらうことばかりでなく」「ささげること」を導いてあげてください。神様にささげることを教えてあげてください。幼い頃より、ささげることを学んでこそ、神様のお役に立つ豊かな人生がもたらされるのです。
神様に自分をささげる経験は、1「人生の目的をしっかり見つめる」経験でもあります。それはまた、2「いのちの価値をしっかり見つめる」経験でもあります。この二つは深く結びついています。
たとえば、パイロットになりたい、社長になりたい、プロ野球の選手になりたい、看護婦になりたい、お母さんになりたいなど、子供たちは将来の夢、目標について語ります。しかしパイロットになったとしても「ではパイロットになってどうしたいのですか? 」と質問するとゆきづまってしまいます。根本的な目的があいまいだからです。目標(何をするか、何になるか)と目的(どうあるのか、どう生きるのか)とは明らかに別のものだからです。聖書ははっきりと教えています。人生の目的は、「神の栄光をあらわすこと」にあると(1コリ10:31 ピリ1:20)。欧米のプロテスタント教会では、聖書教育や信徒訓練が行われ、教理問答集が種々作成されています。有名なウェストミンスタ−信仰小教理問答集の第一問では、人生の主な目的はなんですかとの問いに対して、「人生のおもな目的は神の栄光をあらわすことと永遠に神を喜ぶこと」ですと教えられています。自分のためにだけ生きる人生から、神のために生きる人生と言う深みを幼い頃から学ぶことができる子供たちは幸いです。
神のために生きるという目的の背景には、私たちの「生」そのものが、わたしたちのものではなく神様のものであるとの認識があります。宗教改革者のカルバンは、「私たちはわたしたちのものではなく、神のものである」と言いました。自分のいのちも人生も自分のものであるいうのは高ぶりです。その高ぶりから、いのちへの尊厳が軽視され、生かされていることへの感謝が薄められてゆくといえます。聖書は自殺を禁じ戒めていますが、それは神のものである生を尊ぶがゆえです。
第1に、神のかたちに似せて人は創造されたゆえ、自殺はこの世で最も貴重で、最も聖なるものを破壊することになるためである。世界に一つしかない「いのちを尊ぶ」という人道主義的な面よりも、人間が持つ聖性の破壊という罪と結び合わされている点が特徴となっています。
「人の血を流すものは人に血を流される。神が自分の形に人を創ったゆえに」(創9:6)
第2に、人間の生は彼のものではなく神のものであるゆえ。人間の命は神から貸し与えられたものであり、神に仕え神の栄光をあらわす目的を伴って人間に委託されたものである。神からの委託に応えることを放棄し、死を選ぶ自殺はきつく戒められることとなります。
第3に、人は生きることを赦されているが、その自由を放棄することは許されていないから。
神学者カ−ル・バルトは、「暗闇に差し込む唯一の光がある、それは「あなたは生きなければならない」ということではなく「あなたは生きることを許されている」ということである。これは神だけが語り繰り返し語られることである。試みの原因はそのような神のことばが聞こえなくなるというところにある。」と語っています。私たちは「生きることが赦されている」存在です。それほど大きな恵みに捕らえられているのです。・・赦されて生かされて生きている・・いのちの尊さとその価値の絶大さを覚えるとき、自殺することは禁じられるのです。
カトリック教会の神学者トマス・アクィナスは「神学大全」において、「自殺は神の大権の侵害である。神だけがいのちを終わらせる権利をもっている。」と定義しています。生きることを赦されている私たちに、いのちを終わらせる権利はないのです。したがって欧米のカトリック教会では、自殺者には厳しい対応がとられました。
幼児祝福式を通して、私たちは改めて、いのちの尊厳と人生の意味を考えさせられます。
「わたしたちの生はわたしたちのものではなく神様のものである」ことを、幼い時より教会で学ぶことは何と幸いなことでしょう。
「幼子を私のもとに来させなさい」とのイエス様の招きを大切にしたいものです。小さな教会に多くの子供たちが与えられています。この幼子たちの救いのために教会員が心をこめて主に仕えるように仕え、また祈りの手を高くあげて行きましょう。
「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ」(エレミヤ2:19)
祈り
幼子のために仕えることを導いてください。子供もともにささげる礼拝を目指すわたしたちの教会の礼拝とその目的が祝福されますように。