☆祈りのメッセ−ジ☆

● 2002年年末礼拝説教 「あらゆる苦難の中にあっても ダビデの祈り」
● 2003年元旦礼拝説教 「私を祝福してください ヤベツの祈り」
● 2003年新年礼拝説教 「私たちの永遠の祈り 主の祈り」


2003年度 新年礼拝説教                       2003-01-05

      「私たちの永遠の祈り・主の祈り」

『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕  マタイ6:9−13


新年最初の礼拝にあたり私たちは、クリスチャンに与えられている最大の特権である「祈り」について学びたいと思います。祈りは私たちに与えられた最大の祝福への扉です。

ウィルキンソン博士は、ベストセラ−となった著書「ヤベツの祈り」の中で1つの例話を紹介しています。天国に来た人をペテロが迎えて案内します。大きな倉庫のような建物の中に入ると床から天井までおびただしい数の棚がありそこには名前が記された赤いリボンで結ばれた箱が並んでいます。彼は自分の箱を見つけて中をのぞくと深いため息をついたというのです。そこにあったのは彼が生きていたときに神が彼に与えようとされていたすべての祝福だったからです。残念なことに彼はそれを求めなかったためそのまま残されていたと言うのです。「求めよ、さらば与えられます」との約束があるにもかかわらず彼が求めなかったゆえに受け損なったたくさんの祝福だったと言うのです。英国の有名な説教者ロイド・マルティン・ジョ−ンズ博士も「祈ることを教えていただくことは私たちにとって確かに最大の必要である。正しく祈ることを知らないために、キリスト者生活における本当のすばらしい数々の祝福を私たちはみすみす失っている。」(山上の説教p68と説いています。神の子供たちに与えられている「祈り」は、豊かな祝福への扉です。神の祝福と賜物をいただく恵みの通路なのです。

T クリスチャンの祈りの3要素

さてクリスチャンがささげる祈りは内容的に大きく「讃美」「嘆願」「傾聴」の3つに分類できます。

「傾聴」とは、神が何とお答えになるか、あるいは神様が私たちに何を願われているか心を静めて神に聴く祈りです。デボ−ションあるいはメディテ−ションとも呼ばれます。サムエルが少年時代に「主よ、お語りください。しもべは聞いております」(サム3:10)と祈った祈りがその代表です。

「嘆願」とは、自分のことや他の人々の祝福のために神の恵みと助けを求める祈りです。どんなことでも率直に願い求めればよいとイエス様は教えてくださいました。さらに自分のために祝福を願い求めるならばそれと同じ分量だけ他の人々のための祝福を祈ることを「執り成しの」祈りと言います。これはクリスチャンの祈りの大きな特徴と言えます。クリスチャンは、自分の祝福は他の人々の祝福でもあることを信じて祈ります。ですから自分の幸福が他の人々の悲しみとなるような利己的な祈りは御心に適う祈りではないことを理解しています。

高校の入学試験の前日に教会に祈りに来たクリスチャンホ−ムの中学生がいました。彼は自分のためばかりでなく友人の合格のためにも心を注いで祈って帰りました。私はその姿を見て感動しました。これこそクリスチャンの祈りだからです。嘆願の祈りの代表として旧約聖書において、「私を祝福してくださらなければあなたを去らせません」(創3226)と祈ったヤコブや「私を大いに祝福してください」(1歴代4:10)と祈ったヤベツの大胆な祈りをあげることができます。ソドムの町に住む甥のロトと家族のために執拗に取り成し続けたアブラハムの愛に満ちた祈りも思い起こすことができます。嘆願の祈りの代表者である彼らから学べる秘訣は、父なる神様は、求める者に豊かに与えようとされるやさしさを十分にお持ちのお方であるという神の慈しみです。ヤベツに見られるような「積極的な祈りの祝福」も神様は豊かにご用意されておられることでしょう。

「賛美」とは、自分や他の人々のために祝福を願うことではなく、神の臨在と主権の前にひれ伏しただ神の御名と栄光を崇めるという純粋な祈りを指します。ここにおいて祈りは礼拝と重なってまいります。天に於ける祈りは純粋に礼拝と賛美へと移行してゆきます。なぜならば天においてはすべて神の御心が成就し、もはや何一つ請い願うことがなくなるからです。

旧約の時代、神殿の聖所では祭司たちのたく香の煙が絶える事がありませんでした。同様に教会においても、「傾聴、嘆願、賛美」の祈りがとぎれることなく御国の祭祀として召されている私たちによってささげられることを神は願っておられます。ところで私たちの祈りはこの3つの要素が調和しているでしょうか。神様が話しかけようとした時、もうそこには誰もいないというようなせっかちで一方通行の祈りになっていませんか。自分のことは熱心に祈るけれど他の人々への愛と思いやりを少しも示さない独りよがりの祈りになっていないでしょうか。おねだりばかりの祈りになって、感謝のことばがない祈りになっていませんか。あなたのそばには、願い事を集めるかごを背負った天使ばかりでなく、神様への感謝のことばを集めるために遣わされた天使が来ていることも忘れてはなりません。

U クリスチャンのささげる主の祈り

さて、「賛美」の祈りを考えるときにその代表的な祈りが、イエス様が弟子たちに教えてくださった「主の祈り」と言えます。この主の祈りには、3つの特色があります。

第1に、新しい共同体として教会の祈りです。主の祈りではすべて「私たち」と、祈り手が複数形になっています。個人の祈りというよりは共同体としての祈りであり教会の祈りとされています。主の祈りをひとつの御霊に導かれて祈るところに教会が形作られます。主の祈りをともにささげることによってどこにいても私たちはキリストにあって「ひとつのからだ、ひとつの交わりに生きる御国の民」とされていることを繰り返し確認してゆくのです。 

第2に、神との親しい交わりの祈りです。イエス様は、神様に向かって「父よ」と呼びかける親密な祈りへと招いてくださいました。当時は神の名を18も連ねて祈るような格式ばった祈りが貴ばれ、一つでも順番を間違えると最初に戻って祈り直したそうです。イエス様はくどくどとこのような祈りをしてはならないと戒めました。誰でも遠慮なく私の名によって「父よ」と親しく呼びかけて恵みを頂きなさいと祝福の扉を開いてくださったのです。

ヨハネ 16: 24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」

第3に、神の主権を仰ぐ祈りです。

「アバ父よ」と親しく呼びかけても、なおその神が「天におられる」聖なるお方であることを主の祈りは忘れていません。天は単に場所を指すことばではなく、神の聖い尊厳と威光を意味していることばです。ですから神を神としておそれ敬う心、神への畏敬の念を決して忘れてはならないのです。神の友とさえ呼ばれたアプラハムですが、ロトために取り成しの祈りをした時、「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げることをお許しください」(創18:27)と地にひれ伏して神を仰ぎ見た姿を私たちは忘れてはなりません。

「御名が崇められますように」と主の祈りは続いて教えます。崇めるということばは「神のものは神のものとして正しく聖別する」という意味です。神をおそれ敬ったユダヤ人は、神に属するものと人間に属するものとを区別し聖別しました。地上のものは地上の蔵にどの民族よりも賢く納めましたが、天に属するものは天の蔵に信仰によって納め、天に永遠の宝を積みました。安息日を聖別してすべての労働を休み、礼拝をささげました。母の胎を始めて開く男子を神にささげ、割礼を施しました。収穫の1/10を聖別し、神殿の祭壇と宝物倉にささげました。残った9/10を神様からのあふれる恵みと感謝して受け取り満ち足りて生活しました。「神のものは神にカイザルのものはカイザルに返しなさい」(マタイ22;21)と、イエス様も神をおそれ敬うユダヤ人の「御名を崇める」精神を強調されました。

「御国が来ますように御心がなるように」とさらに主の祈りは教えます。神の御心とは、ただひとつです。キリストにあってすべてのものがひとつとされ、キリストが主の主、王の王となられる神の御国がついに完成されることです。御国はキリストとともにすでに到来し歴史の中にその姿をいよいよ色濃く現し、終末における完成を待ち望んでいます。この永遠のご計画のために神は全世界から御国の民をキリストのもとに招集しておられるのです。

西からも東からも神が御国の民を招集しておられる働きに教会が預かることが「宣教」の働きにほかなりません。神はかつてユダヤ人ばかりでなく異邦人を神の民に加えようとされました。そして今日では異邦人ばかりでなくユダヤ人をキリストにあって救おうと願われています。宣教の働きは、人間の熱心さに基づくわざではなく聖霊のみわざであり、神のなせる奇跡的なお働きです。まことの神を知らない人々とまことの救い主を知らない人々の心に神の光が差し込み、真理が啓示さ

れ、心砕かれて十字架のキリストを、主として告白し受け入れることは、聖霊がなせる神のみわざいがいのなにものでもありません。ですから教会は一人の人が救われてゆくことを何よりも大きな喜びとし、その喜びのためにどんな犠牲をも惜しまないのです。「御子を信じる者がひとりも滅びることなく永遠の命を得る」(ヨハネ3:16)ことによって、神の御国はいよいよ完成してゆくのですから。

神の主権と御国の完成を待ち望む主の祈りを、主が来られる日まで私たちは祈り続けてゆきます。

主の祈りは教会の永遠の祈りであり、この祈りを終えるときには、教会は天に引き上げられ、キリストの永遠の花嫁とされるのです。その日まで、心を込めて「御国がきますように」と祈り続けてまいりましょう。


                     祈り

主よ、永遠の教会の祈りである「主の祈り」を今日も、私たちに祈り続けさせてください。
神の御国が完成するその喜びの日まで、世々の教会が
この永遠の祈りをささげ続けてゆく
ことができますように導いてください。