2003年度 ペンテコステ礼拝 「さあ、神の御霊の賜物を受けよう」                  (2003年6月8日)

1ペンテコステとは

今日はキリスト教会の暦で「ペンテコステ」と呼ばれています。ペンテコステとは、ギリシャ語で「第50日目」を意味する数詞に由来しており、キリストの復活日から第50日目の日曜日を指し、「聖霊降臨日」と言います。聖書によれば、この日、エルサレムの民家の2階座敷に集ったお弟子たちにキリストの御霊(聖霊)が注がれ、彼らは御霊に満たされ、御霊の力を受けました。こうして聖霊を心に宿したキリスト者たちによって、霊とまことによる父なる神への新しい礼拝がささげられ、聖霊の力による福音宣教が進められ、キリストをそのかしらとする信仰の共同体(教会)がエルサレムに誕生したのです。

もともと、旧約時代には「五旬節」または「7週の祭り」と呼ばれ、大麦の初収穫から50日目に、小麦の刈り入れが始まることを祝った祭りが起源とされ、「初穂の祭り」とも呼ばれていました。ユダヤ教の三大祭り(過ぎ越の祭り、五旬節、仮庵の祭り)のひとつで、後の時代にはモ−セがシナイ山で律法を賦与された日とみなされ、五旬節の意義はいっそう強められました。

つまり、「モ−セの律法に生きる」ユダヤ民族に対して、「キリストの御霊に生きる」キリスト教会の特徴というものが鮮明に現れていると言えます。

2 ペンテコステの2つの意義

ペンテコステに聖霊が注がれたことは、2つの大きな意味をもっています。

1  聖霊は神の国の到来の終末的しるし

2  聖霊は神の民の生活を主導する賜物

1 聖霊は神の国の到来の終末的しるし

最初の人間アダムは、神に背いて罪を犯し堕落して神との交わりを失ってしまいました。創造主である神様はこのことを深く悲しみ、人類を罪と死の力から解放し、永遠の滅びから救おうと心に決め、永遠の救いのご計画を立ててくださいました。このご計画を「救済史」と神学的に表現します。神のご計画の全体像を理解することは聖書をひも解く重要な鍵です。救済史のゴ−ルは、「神の国の完成」に設定されています。

旧約聖書はやがてユダヤ民族のなかから救世主、メシアが誕生し、救いを成就し、神の主権に満ちた御国が完成するという数々の預言を記しています。救い主の誕生、十字架の身代わりの死と復活、聖霊の降臨はすでに成就しました。その歴史的な証言が新約聖書には正確に書き記されています。さらに新約聖書はこれから起きる2つの決定的な終末的な出来事つまり「救い主の再臨」と「神の国の到来」を預言しています。

ペテロは神の霊が注がれたペンテコステの出来事を終末の大いなるしるしと理解しました。

「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』(使徒216-21

キリストの再臨によっていよいよ神の国が完成します。そして終末の日にキリストが主の主・王の王としてこの世界に再臨され御国を完成される前に、キリストの御霊がペンテココステの日に教会に注がれ、御国のみちみちた祝福を教会が先取りする形で味わうことができるように許されたのです。

「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ14: 17)

神の国での幸いな生活のすべてを私たちは知り尽くすことはできません。その一部を聖霊の臨在を通して経験するに過ぎませんが、それでも十分すぎるほどの喜びを味わうことができるのです。さて、神の国の最大の喜びは、黙示録から「神が共におられる」ことと「あらゆる苦悩や悲しみから救われ癒される」ことと教えられています。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:4)

キリストの御霊がキリストを信じる者の心に住み、いつまでもともにいるという神の国の祝福を、イエス様もすでにお弟子たちに約束してくださっています。

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14:16-17)

このように、ペンテコステの第一の意義は、聖霊とともにキリストが心にいつまでも住むという、神の国における完全なインマヌエルの祝福の「祝福のさきどり」なのです。このように、聖霊の臨在は神の国の終末的な救いのしるしとして、教会にあたえられたのです。

2 聖霊は神の民の生活を主導する賜物

聖霊は信徒の信仰生活を主導する神の賜物として与えられました。キリストを信じる者に用意されている最大の賜物は「聖霊」です。このことはどんなに強調してもなおたらないほどです。

「そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」(使徒2:38-39)

ここで使用されている賜物は単数です。聖霊はもろもろの祝福の一つではなく私たちがこの地上で受け取ることができる最大のそして唯一の賜物と理解できます。そうであるならば、聖霊の賜物に対して感謝してもしきれないはずです。

よみがえられたイエス様は弟子たちにまず「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)と呼びかけました。パウロはエペソ教会の信徒に、「御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)と牧会的指導をしています。神様からの最大の贈り物をしっかりと受け取り、満たされてゆきたいものです。

では聖霊はキリストを信じるものたちの人生にどのように働くのでしょうか。

1   聖霊はイエスキリストによる「救い」を個人的な確信と喜びとします。

キリストの十字架の救いの御業は、神が御計画され神が成就された神の恵みの働きです。私たちはただ感謝して「受け取る」以外にはありません。キリストによる罪の赦しと永遠のいのち−この大いなる神の救い−は、聖霊によって私たち自身にもたらされ、内的な確信となり、喜びとなり、感謝となり、讃美となります。2000年前のキリストの救いが、現代に生きる私たちの経験となり、生き生きとしたリアリティ−をもたらすのは御聖霊の御業です。もし御聖霊の働きがなければ、十字架も復活も遠い昔の時代の単なるひとつの「物語」あるいは「歴史」の1コマに過ぎなくなり、現代に生きる私たちとは「関りのないことがら」となってしまいます。

  「誰も聖霊によらなければ、イエスを主と告白することはできません」(1コリン12:3)

「神は私たちが行った義の業によってではなく、ご自分のあわれみのゆえに聖霊による、新生と更新との洗いによって私たちを救ってくださいました。」(テトス3:5)

「神が私たちの内におられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです」(1ヨハネ3:24)

2   聖霊は信徒の心を宮として住まわれます。このことばは聖霊が一時的ではなく恒久的に定住されることを意味しています。信徒も教会も聖霊の臨在の中に生きることが許されています。このことは神が共におられることの確かなしるしと言えます。

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」(1コリ6:19)


3  
聖霊は信徒の信仰生活を導き続けます。信徒の生活は聖霊の導きの下におかれます。

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」(ガラテヤ5:25)

聖霊の導きは「外からと内から」と2つのル−トがあります。外からとは摂理的な導きです。パウロは宣教旅行の中で幾度となく経験しています。「彼らはアジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギア、ガラテヤ地方を通った。こうしてムシヤに面したところに来た時、ビデニヤの方に行こうとしたイエスの御霊がそれを許さなかった。」(使徒16:6)

いっぽう、内からの導きとは、イエスの御霊が心の中から静かに霊的に働きかけてくることです。聖霊の内なる導きとは、ことばを置き換えれば、「いつも私たちがイエス様のように考え、イエス様のように感じ、イエス様のように判断し、イエス様のように行動すること」を意味します。イエス様の御心を私の心とさせていただくことです。

イエス様の御霊が心の中に住むとはこのような経験を意味します。クリスチャンは外側の律法によって規定されて生きるのではなく、内なるキリストの御声を聞いて、従い、歩み続けます。それが御霊の御支配に生きること、御霊に導かれることの真の意味と言えます。

イエス様を心に宿しイエス様と重なり合うかのごとくに生きてゆく、パウロはこの感覚を「もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラヤ2:20)と表現しました。

キリストが私の中で生きる−キリストのように私が生かされる−この内的体験を聖霊はもたらしてくださいます。その意味で聖霊は「いのちの御霊」とも呼ばれるのです。

「なぜならキリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです」(ロマ8:2)

4      聖霊は信徒の生活をいつも神の愛のなかに基礎づけてゆきます。

聖霊は神の愛を私たちにもたらします。聖霊はキリストの愛にしっかり根ざした信仰生活を養い成熟させてくださいます。もし私たちが神の愛に根ざした生活を送ることができるとしたらなんとすばらしいことでしょうか。いかに私たちは愛において傷つき、愛において破れきった悲しい現実の中を生きていることでしょう。神の愛のみが私たちを癒し救うことができるのです。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22-23)

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ロマ5:5)

牧会者パウロは、信徒がキリストの愛に根ざした生活をすごすように願い、愛において成熟するように祈りました。愛においてキリストのように成熟させていただくことは、人間の努力や修養の結果ではなく、愛の御霊、いのちの御霊のお働きであることを覚えましょう。

「こうしてキリストがあなたがたの信仰によって、あなたがたの心の内に住んでくださいますように。また愛に根ざし、愛に基礎をおいているあなたがたがすべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」  (エペソ3:17−19)

5     聖霊は私たちの教会生活を霊的に整え、力あるものに強め、励まします。

1)宣教の働きは聖霊の力によってますます実を結びます。

「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。」 (1コリント2:4)

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

2)聖霊は信徒に霊的な力を賦与します。聖霊は教会に宣教の力をもたらしますが、信徒一人一人にも霊的な力をもたらし、信仰生活に勝利へと導きいれてくれるのです。

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(1テモテ1:7)

パウロは自分の弱さを謙虚に受け入れることができる人でした。自分がいかに無力な存在であるか熟知しているがゆえに、神の御力を仰ぎ、願い求め、力を神より頂いて生きることを学びとることができました。人間の力は限界があり不完全です。しかし神の御力に限界はありません。創造者なる神は、全能なる神であり、「神にとって不可能なことは何一つない」お方です。私たちがどんな人生の試練や困難に直面しようと、御聖霊の力はいつでも備えられています。私たちがその恵みの事実に気づき、聖霊の力を切に祈り求めるならば、聖霊は力を上より注いでくださるのです。あるいはキリストの持っておられる聖い力が内側から湧き上がってくるのです。キリストの御霊の力を仰ぐとき、もはや私たちは無力ではないのです。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

3)聖霊は真実な神礼拝へと私たちを導きます。聖霊の御心は私たちをしてひとりの真実な礼拝者として神の前に整えることにあります。

「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」(ピリピ3:3)

4)聖霊は祈りを深めます。神との語りあいが祈りであるならば、神の霊である御霊によらなければ神との真実な語り合いはできません。御霊のことは御霊が知っているからです。

 「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」(エペソ6:18)

5)聖霊は霊の賜物の多様性と御霊による一致をもたらしキリストの体である教会を健全に建てあげてゆかれる主人公です。さまざまな御霊の賜物によってキリストの花嫁である教会はますます聖く豊かなものへと変えられてゆきます。キリスト者の喜びは、キリストによる新しいいのちを「神への奉仕」に生かして生きることにあります。人生の目的は、「神の栄光をほめたたえ、神ご自身を永遠に喜ぶことにある。」と、ウェストミンスタ−小教理問答は教えています。信徒がそれぞれの賜物をもって、イエスキリストの弟子として仕え、教会を自らの献身の場として生きることによって、目的志向の建設的な人生を生きることができます。

 私たちの教会では、「多様性の一致を尊ぶ」ことを基本理念のひとつとして掲げています。

「さて御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です」(1コリ12:4)

6 すべての信徒は聖霊をすでに受けている

最後に確認をしたいことがあります。クリスチャンの中には「私は聖霊を受けているのだろうか」と悩む方がおられるかもしれません。今、はっきりと確信してください。水のバプテスマを受けたすべての信徒は、同時にキリストの御霊を受けていることを。クリスチャンでありながらキリストの御霊をもっていないものなどは一人もいません。クリスチャンであるかないかの決定的な相違は、心のなかに聖霊が宿っているかいなかによります。神の子であるあなたに求められていることは、聖霊を「受ける」ことではなく、聖霊の賜物の豊かさを再発見し、いよいよ聖霊の主権の下に「身を任せる」ことです。未信者は、罪を悔い改めてキリストの名による水のバプテスマを受けて、聖霊を「受け」なければなりません。しかしクリスチャンは改めて聖霊を「受ける」必要はありません。もう「受けている」のですから。ただ、注意しなければならないことがあります。聖霊を受けていること、あるいは聖霊が宿っておられることと、聖霊の賜物を豊かに活用していることとは違います。愛するあなたが、神からの最大の賜物である聖霊を知り、「聖霊に満たされる」ことを強く願っておられます。

「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ロマ8:9)

「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」 (1ヨハネ4:13)

「私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」(1コリント12:13)

 以上


祈り

主よ、お約束通り、私たちをいよいよあなたの霊で満たしてください。