2004年1月1日

元旦礼拝  詩篇62:5-8


「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ」

2004年を迎えました。評論家の田原総一郎は、「2003年で日本の戦後政治は終わった。今年から本当の新しい時代が始まる」と言いました。私たちの教会も20周年を去年迎え、開拓時代の象徴的存在である伊東さんや武田さんを天に送り、新しい時代に入ったなと思わされました。皆さんにとっても、意義深い価値ある新しい始まりとなる1年でありますようにと心からお祈りいたします。

今年も詩篇からみ言葉をいただき新しい1年の力とさせていただきたいと思います。

このダビデ王の告白は2つに要約できます。それは「人生のあらゆる答えは神の中にある」ことと「人生のあらゆる答えは祈りの中にある」ことです。

1        神の中に人生のあらゆる答えがある

「私の希望は神から来る」「私の救いは神にかかっている」「私の力は神の中にある」と3度繰り返しています。ダビデは自分の人生において必要とするすべてのこと、希望も救いも力も平安もすべては「神の中にある」ことを理解していました。だから彼は神を待ち望んだのです。神様を抜きにしては希望も救いも栄光も力も安息も見出すことは難しいからです。

ある作家が「人間はみな失望の名人である」と言いました。特に私たち日本人は「失望」の名人で、ちょっとしたことにくよくよしたり、落ち込んでしまいやすいものです。またものごとを悲観的に考えてしまいやすい傾向をもっています。世界が急速に移り変わり行く不確実な時代に、小さな人間の力や経験や知識では未来に希望を繋ぐことはやさしいことではありません。だからこそ、大いなる神に望みを置くことを学ばなければなりません。

2        祈り中に人生の答えがある

神の中に人生で必要とするすべての答えがあるとするなら、私たちに求められることは『祈る』ことです。ダビデは「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ」と、心からの祈をささげることを教えています。並みの祈りではありません。神の御前に進み出て、魂を注ぎだして祈ることが強調されています。祈りは神のうちに置かれているよき物を私たちが自分のものとするための恵みの手段といえます。祈りなくしては神の良き御旨と私たちの満足は1つにつながらないのです。

ウィルキンソン博士の著書「ヤベツの祈り」の中に、こんな話が記されています。天国に行ったあるクリスチャンが、大きな倉庫の中で自分の名前が書いてある棚の箱を見つけました。しかし箱の中を見た彼はがっかりしてしまいました。そこには、もし彼が祈り求めていたならば神様が与えようとご計画し備えておられたすばらしいプレゼントがぎっしり入っていたからです。ほとんどが手付かずのまま残されていました。彼は忙しくて祈る時間がないとついつい祈りを疎かにし、後回しにしてしまっていたのでした。

彼が得たものの多くは、彼自身の努力や経済的な力や人脈を通して手に入れることができたようなレベルのものでした。しかしさらに価値のあるものを彼はまだ神様の手から受け取ってはいなかったのです。

祈りは神が備えてくださっている良き贈り物を自らのものにする恵みの手段・通路です。

「たとえ、私たちの祈りがなくても、神様はご自分のご計画を達成されるお方であるはずです。」という反論もあります。神様は私たちを「完全な受身で生きる」人間ロボットとみなしておられません。もし祈らずして手に入れたものと,切に祈って得ることができたこととどこが違うのでしょう。決定的な違いがあります。祈って受け取った物事には、神様への感謝がわきあがるからです。祈らずに手に入れたものはしばらくの間、自己を満足させるだけです。

大切なことは、祈ることの価値が生活の中に根ざしているかにもかかっています。神からの恵みの通路が十分に機能しているかの問題といってもいいでしょう。クリスチャンの祈りは、特殊な「ご利益祈願」ではありませんから、普段の信仰の生活の中に通路が開かれています。

一人の老婦人が教会堂の2階から落ちてしまいました。少し出血もしており骨折したのではとたいへん心配しました。私が駆けつけ「痛みは? 感覚はありますか?」と医者のように質問すると、彼女は「わかりません。それより先生、まずお祈りください」と言われました。

医者のような対処や気配りよりも、彼女は祈りを牧師に求めました。それは牧師の仕事、牧師のアイデンティティが祈ることにあり、祈りが期待されている務めであることを、私に教えてくれる意味深い経験でした。また彼女にとっては、緊急事態の中で神に祈ること、祈りを求めることは、自然なことであり、生活の中の一部であり、何にもまさって最優先されるべきことだったのです。これが「人生のあらゆる答えは祈りの中にある」ことを学んでいる人の姿といえます。

あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。