礼拝説教 「母の日に想う真実な愛」 2004/5/9
今日は母の日です。母の日は1914年にアメリカにおいて祝日に制定されていらい世界的に広がりました。アメリカのフィラデルフィアという場所に住むアンナ・ジャービスさんのお母さんが1905年5月9日に天に召されました。「お母さんが生きているときにもっとお母さんをたたえて、感謝の気持ちを伝えたかった」と思い、追悼会の会場をお母さんが好きだったカ−ネ−ションの花で飾り、参加者に花を手渡し、後悔しないで生前にお母さんを敬う機会を設けたいと願ったのが始まりとされています。
今日はすこし突っ込んだお話をします。インタ−ネットの情報から私も始めて知ったことですが、母の日はお母さんの「愛」に感謝する日という一面だけではなく、もう一つの知られていない面があります。アンナ(Anna Maria Reeves Jarvis)さんの母ミセス・ジャービス(Ann Marie Reeves Jarvis)さんは、ウェストバージニア州グラフテンの小さな教会の牧師の夫と結婚しましたが彼女は素晴らしい社会活動家でした。結婚後に「母の日仕事クラブ(Mothers' Day Work Club)」を結成し、病気で苦しんでいる人たちを助けるために募金活動をしたり、病気予防のため牛乳や食品の検査など公衆衛生のための活動をしていました。南北戦争(1861〜65年)が始まると、「母の日仕事クラブ」は中立を宣言して、南北双方の傷ついた兵士の看病をしました。戦争も終わりに近づいた頃、彼女は戦争で傷ついた人々の心を癒そうと、今度は「母の友情の日(Mother's Friendship Day)」を企画し、政治に関係なく南北双方の兵士や地域の人たちを招き、お互いに敵意を持つことを止めさせる活動を推進しました。彼女は戦争や病気で8人も子供を失っています。残ったアンナさんの他のもうひとり姉妹は視覚障害者でした。大きな試練の中で彼女は母としての愛情を、自分の子供のみならず、すべての人々に注いだのでした。
娘のアンナさんが母を追悼したのは、個人的な思慕の念からだけではありません。一人の母親としての視点から、激動の時代にしっかりとした意識をもって平和運動、社会活動に取り組んだ信仰と自立精神に満ちた母の生き方への共感と尊敬の想いがあったからだと思います。「あなたの父と母を敬いなさい」(出20:12)の聖書の教えはアンナさんにとっては自然な気持ちであったことでしょう。
19世紀から、アメリカの女性は社会の改革に大きな貢献をしてきたと評価されています。奴隷制度の廃止、暴力や女性労働者の環境改善、子供の保護、公衆衛生、貧しい人たちへの社会保障など女性の視点や母親としての意識から草の根のように広がったと言われています。アンナさんは自分の母親だけでなく、すべての母親や女性の社会に対する貢献を讃えて、祝日として『母の日』をつくることを求め続けたのでした。
『母の日』が、いつか「母へのプレゼント」を贈る日に摩り替えられました。アメリカせはたちまち、このイベントに飛びついた花業界の主導で町には「母の日のプレゼントには、花を贈りましょう」という広告があふれるようになりました。1923年の母の日フェスティバルで、アンナさんは母のシンボルだった白いカーネーションが一本1ドルという当時では信じられないほど高値で売られているのを見て激怒し、「貪欲のために母の日を侮辱している」と、とうとう行事差し止めの裁判を起こしたのです。しかしアンナさんは裁判に負けてしまいます。死ぬ間際に、アンナさんは記者にこう短く告げました:「私は、自分が創ったこの祝日の商業化を自分の手で止めさせることによってお母さんの恩に報いたかった」と。ちなみに日本の場合、母の日の市場規模は5000億円で、一人平均9413円のプレゼントを贈り、クリスマス商戦の1.25倍の規模だそうです。母の日は日本最大のギフトイべントへと成長しています。
母の日に、母親を個人的に慕い感謝するだけでなく、母親の視点から社会活動を考え、平和を祈願することも大切ではないでしょうか。ちなみに、カ−ネ−ションを買う時に思いだしてください。内戦と貧困に苦しむ南米コロンビアは、今日、カーネーションの生産量が世界一だそうです。日本が輸入するカーネーションの8割以上はコロンビアから来ているそうです。今まで反政府軍の軍事資金源となっている麻薬の原料としてケシを育てていた貧しい農家が、カーネーションを植え始めたというケースもあるそうです。コロンビア産のカーネ―ションを選んで購入することは、貧困・麻薬・暴力といった泥沼の連鎖からコロンビアの人々を救う一助ともなっています。1本のカ−ネ−ションからも世界が見えてきます。平和と貧困に貢献しようと願うことも母の日にふさわしい過ごし方だと思います。
コロサイ3:10−16は「キリストを着た人」(10)との表現でクリスチャンの新しい生き方を教えています。「あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と教えられていますが、生まれながらの罪の性質を持つ者にとって、このことは理想的ではあっても現実には難しいことです。自然発生的に湧き上がるものではありません。人間は与えられ教えられながら成長してゆく存在です。母の日ですが美しい美談ばかりではありません。悲しいことに連日のように実母による児童虐待による傷害死亡事件が報道されています。しかも氷山の一角にすぎないともいわれています。お母さんたちを個人的に責めるよりもそのお母さん自身の母子関係、家族関係全体を見るときに問題の本質を理解できる場合があります。
同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容といった道徳的性質は、そのように愛され接してもらっ
た体験から生まれてくる特質があります。ところが人間にあるいは親に完全な愛を要求してもそこには限界があり、要求度が高ければ高いほど結果的には不満と怒りあるいは失望が強くなってしまうことでしょう。聖書はまず、あなたがたは「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」(12)であるという新しい気づきについて教えています。「神にあなたは愛されている」ここが出発点となります。愛されたという経験から始まります。愛を神の中に見出すことです。
「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」 (1ヨハネ4:8-9)
生まれながらの人間の性質にとって「赦し」もまた相対立します。憎むこと、攻撃すること、非難すること、裁くこと、陰口を言うことを楽しむという罪の性質を私たちは持っています。赦しもまた与えられなければ学ぶことができません。生まれながらの罪の性質は「復讐を望む」からです。ですから聖書は、
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)と、キリストの十字架の赦しに私たちの目を向けさせます。私たちはすでにキリストにあって「赦された者」とされているのです。
キリストによって新しくされるとは「とっかえられる」ことではありません。ゆたかにキリストにあって「満たされる」ことだと私は思います。6月になり田んぼに水がはられると、植物も小動物も生命が甦ってきます。満たされることによって新しくされるのです。
神の愛と赦しは、私たちが「みことばを豊にこころに蓄えることによって」いよいよ豊かさを増してきます。
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」(コロサイ3:16)
神のことばである聖書に触れ、キリストのことばと出会い、神の真実なみこころを知ることによって、神のことばは、「神に愛されている私」、「神に赦されている私」への発見へと導き、感謝し、感動をもたらしてくれることでしょう。
アンナさんのお母さん、ジャ−ビスさんもそんな一人であったと思います。