題「不思議な助言者・平和の君」
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、
さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。
万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(イザヤ9:6-7)
先週は大阪でホ−ムレス伝道をしている教会でお話しをしました。文字通リ寝る場所もない方々が30名ほど集い、賛美を歌いキリストのことばに熱心に耳を傾け、心からの礼拝をともに捧げることができました。クリスマスの夜、冬空の下で野宿する貧しい羊飼いたちが、飼い葉おけに眠る御子の周りに集い、ぬかずいて御子を礼拝した光景とだぶってくる不思議な感覚を私は覚えました。
さて、キリストがベツレヘムの家畜小屋の飼い葉おけの中に生まれたはるか700年前にすでに預言者イザヤによって救い主の誕生が預言されていました。イザヤの預言は旧約聖書中最大のクリスマスメッセージとなっています。
ひとりのみどり子が神の民イスラエルに、そして私たち罪深い人間にプレゼントされるというのです。このみどり子は「主権者」つまり「王なるお方」であり、このお方の王国は永遠に続くことが預言されました。
クリスチャンはクリスマスには飼い葉おけの前で神のひとりごと出会い、受難日にはカルバリの丘の十字架の下で罪からの救い主と出会い、イ−スタ−の日には空になった墓の前で復活の主・栄光のキリストと出会うことができます。特にクリスマスには飼い葉おけの前で礼拝をささげた羊飼いや博士たちの姿を思い起こし、私たちもまた飼い葉おけで眠る赤ちゃんの目線にまで低くなって、礼拝をささげたいと思います。このお方は最も富んでおられたのに最も貧しくなられ、栄光に満ちた神の御子であるのに低くなって飼い葉おけの中で誕生し、十字架の死に至るまで神の御心に従われました。飼い葉おけに眠る神の御子の前にぬかずく時、わたしたちもまた低くへりくだって神に仕えることを学ぶのです。
真の礼拝者に対して永遠の主権者は「4つの名前」を明らかにしてくださいます。
第1に、このみどり子は「不思議な助言者」です
助言者とは王の傍らで王を補佐する知恵と励ましに満ちた人物を指すことばです。しかも良いアドバイスを与えてくれるばかりではなく、不思議すなわち奇蹟をもたらすお方でもあるのです。
神の御子をキリストと信じ礼拝を捧げる人々の人生には、神の導きと奇蹟が共にあります。もちろん何をもって奇蹟と呼ぶかは慎重に考えなければなりません。宝くじで1億円が当選するようなことを「奇蹟の基準」とするならば、「きっと神の奇蹟などは私の人生には1度もなかった!」という結論を下すことになると思います。ところが、「今日も一日守られた」と夕べに感謝の祈りをささげることができる人にとっては、1日1日が奇蹟の連続であり、感謝と感動の連続でもあることでしょう。重い病気で寝たきりのある老婦人が朝目覚めた時、ゆっくり目を開ける。そして自宅のベットの上であることがわかった時、「神様1晩お守りくださって感謝します。今日も朝を迎えることができました」と祈るという証しを聞きました。この婦人にとって無事に朝を迎えることができたこと自体が奇蹟であり感動でした。イエス様とともに生きる人生は小さなことに感動し、当たり前のことを当たり前としないで奇蹟とさえ呼ぶ感謝の日々を歩むことができるのです。
第2に、このみどり子は「力ある神」です
か弱い赤ちゃんのどこに一体、力があるのでしょうか。実は貧しい飼い葉おけの中に神の御子が生まれたそのこと自体が大きな力なのです。最も気高いお方が最も貧しくそして最も低くなられました。最も低いところにまで降りてこられる、このことが真実な力であり、愛の力なのです。ヨハネは御子の十字架の死を目撃し「ここに愛がある」と告白しました。彼はキリストの十字架において完全な愛を知ったのです。愛の力は人を高く上らせるのではなく低くへりくだらせます。
皆さんはもし、神様の力をいただくことができるとしたらどこにその力を受けたいと願いますか。ある人は病気を治す奇蹟を行う力が欲しいと願うかもしれません。ある人は最高の知恵や知識力を求めるかもしれません。けれども私たちは愛において神様の力を求めているのではないでしょうか。なぜならば私たちは愛が乏しく、無力で、愛に生きることがなかなかできないからです。もし私たちの心に聖霊の愛が満ちているならば、私たちが直面し悩んでいるほとんどの問題は解決するのではないでしょうか。
神の御子は聖霊によって神の愛を私たちに豊に注がれるお方なのです。
第3に、このみどり子は「永遠の父」と呼ばれます。
イエス様は天にある父の御心とその愛を明らかにしてくださいました。父なる神を見た者は誰もいません。しかし永遠なる父を私たちは御子の中に見出すことができるのです。ヨハネは「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(1:18)と語っています。御子イエスを通して私たちは始めて父なる神様の御心と深い慈愛を知り、交わりを持つことが許されているのです。
最後に、このみどり子は「平和の君」と呼ばれます
なぜ神が人となってこの世界に来られたのでしょう。それは、十字架にかかりご自身の身代わりの死によって私たち人間の罪を償い許しをもたらすためでした。聖書は「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです」(ロ−マ5:8-11)と告げています。
罪を悔い改めキリストの十字架の赦しを信じるならば、その人の罪のリストは破棄され、神様との間に和解が生まれます。何よりも大切なのは神様との和解であり平和です。
神様との和解は、その人自身に和解と平和をもたらします。神様の赦しを知らなかった時、私たちはどれほど自分を憎んだり嫌悪したりさげすんだり、自罰的な行動を取り続けていたことでしょう。自分自身が自分の最大の敵になっている場合がいかに多いことでしょう。
堕胎手術を受けたあるお母さんがその後、罪の呵責に苦しみ悩みました。さまざまな宗教を遍歴し、水子供養に励みましたがまったく心の平安がありませんでした。教会で聖書を学び、罪が心から平安を奪い取ってゆくことを知りました。彼女は神様の前で罪を告白し悔い改め、キリストの十字架の赦しを信じました。すると心の平安が与えられたのです。
イエスキリストの十字架によって罪に対する神の怒りは宥められ、罪は赦され、神と罪人との間にあった敵意は除かれ、断絶に代わって永遠の和解と平和がもたらされました。そして、十字架の下で罪の赦し、すなわち神との平和を得た者は、自分との平和を見出すことができるのです。自分で自分を責め続け、自分で自分を罰し続ける、悲しく否定的な考え方から解放され、心に喜びがあふれます。
十字架は神との和解と平和をもたらし、過去の自分と今の自分との和解と平和をもたらし、そのような平和と平安を心に持つ者は「兄弟との平和」に生きる者と変えられ、平和を生み出す人とされてゆきます。
御子の誕生とともに「新しい国」が始まりました。キリストの国は永遠に存在し究極の完成に向います。万軍の主の熱心がこれを導かれるのですから誰も止めることはできません。神の国は必ず完成します。
2000年前にお生まれになった神の御子の名はイエスキリスト。この方は永遠の御国の王であり、信じるひとり一人の人生を導き続ける「不思議な助言者、力ある愛の神、永遠の父、そして平和の君」となってくださるのです。今年のクリスマスはイエス様をあなたも心にお迎えしませんか。
祈り
天の父なる神様、あなたは私たちを罪から救い永遠の御国に招き入れるために、かけがえのないひとり子を
遣わしてくださいました。そのクリスマスをまもなく私たちは迎えようとしています。
2000年前、羊飼いたちが飼い葉おけの中に眠る御子を囲み、ひざまづき、心からの礼拝を捧げたように
私たちも御子の栄光を賛美する礼拝をお導きください。
2005年12月4日(日)