2005年 クリスマスメッセ-ジ

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                 2005年12月11日  「キリストの母マリアの信仰」(ルカ1:26-56)

「御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。(ルカ1:35-38) 

 偉大な世界的発明王と言えばエジソンの名前を上げることができます。彼の成功の陰には、幼いときから彼を愛し理解した母親の大きな存在があったといわれています。エジソンは今日であればADHD(注意欠損多動性症候群)と呼ばれる障害児だったそうです。赤ちゃんの脳には1000兆もの神経ネットワ−クがあり、次第に必要なものだけが残ってネット数が減少するそうです。しかし、そのまま過剰に残ってしまう場合、外部からの情報を必要なだけ選択するということができず、混乱状態に陥り、注意が欠如したり、行動に落ち着きがなくなってしまい、周囲からはおかしな子と見られてしまいます。しかし一方では他の子供では考えられないような独創的な発想ができるともいわれています。母親は周囲の人々がおかしなだめな子というレッテルをはっても、実験に夢中になるわが子の姿を見て、地下に実験室まで作って好きなだけ実験を楽しませたそうです。偉大な人物は大きな母親の守りの中でうみだされるようです。

神の御子イエスキリストの母として全世界の女性の中から選ばれたマリアについて今日は学んでみましょう。

 平凡な田舎娘のマリア

 マリアはユダヤの国の北部ガリラヤ地方の小さな田舎町ナザレに住む若い女性であり、貧しい石大工の青年ヨセフと婚約していました。「ナザレから何のよい者が出ようか」(ヨハネ1:46)と笑われるほどの田舎村で生まれ、家柄、身分、学歴どれをとっても特別すぐれた点のないごく平凡な若い娘でした。強いて言えば、後に6人の子供(マタイ13:5556)の母となり、育児炊事洗たくをこなすことができた体力に自信のある女性だったようです。神様はこの若い娘を神の御子の母として選ばれました。神様はいつも無きに等しい者、取るに足らない小さな者を選び、神の器とし、偉大なご計画の一端を担わせ、価値ある人生を歩ませてくださるのです。この世的には無に等しい女性でしたが、天使ガブリエルがマリアのもとに遣わされた時から、彼女の隠されていた麗しい特性である信仰が現れ輝き出したのです。マリヤには二つの信仰の輝きがありました。

 マリアの信仰…みことばへの素直さ

 御使いが現れ、「あなたはみごもり男の子を生みますから名をイエスとつけなさい」と命じた時、彼女は驚き「まだ結婚していないのにそのようなことがどうして起こりえますか」(34)と質問しました。するとガブリエルは「聖霊があなたに臨み、神の力があなたを覆います」(35)と、いのちの創造主である神の力による超自然的な働きかけによって、神の子が受胎することを知らせました。その時、マリアは無条件で、全能の神とその御力を信じたのです。

確かに、男女の性のいとなみによって女性は妊娠します。しかし女性の胎の中にひとつの新しいいのちが宿り成長することは、いまだに大きな神秘さに包まれています。たった0.2mmの1つの卵細胞が受精したときから分裂を始め、わずか280日の間に4000億以上の細胞へと増えて体の器官をつくりあげてゆきます。母親の胎の中で繰り広げられる生命創造の驚異と感動のドラマは、神の見えざる神秘の御手を抜きにしては語れない世界ではないでしょうか。生まれた瞬間、へその緒から酸素や栄養を受けていたのに、一瞬にして血液の流れ変わり、一度も使ったことのないしぼんでいた肺がふくらんで肺呼吸をするように切り替えられるそうです。大人なら死んでしまう酸素不足にも赤ちゃんは耐えられるのです。人間の体の中の血管の長さをつなぐと約6万キロになるそうです。地球を二回り半する長さです。中国の黄河やアメリカのミシシッピ−川よりも長い、血液の流れの中で私たちは生かされ生きているのです。誰がこのようないのちの川を私たちの体内に造られたのでしょう。すべてのいのちは創造主なる神の力と知恵に満ちたご支配の中にあると教える聖書の真理は受け入れ信じるに十分値するのではないでしょうか。         

 クリスマスは処女降誕という奇跡から始まりますが、新約聖書を読む多くの人々にとって最初のつまづきとなっています。しかし処女降誕は無から有を呼び出すことさえおできになる創造主である神様によるまさに「新しいいのちの創造の始まり」を告げており、キリスト教は「いのちの宗教」であることを指し示しています。神を信じる信仰とは、いのちの神秘さと尊厳、その比べようがない価値を敬い、いのちを粗末にせず大切に使うことつまり感謝して生きることでもあります。キリストを信じる者は永遠のいのちを信じますが、単に時間の長さを意味しているばかりでなく、いのちを永遠に価値あるもっとも尊いものとして敬い、愛し、大切にして、自分も他人も豊に生きることをも意味しています。処女降誕の意味する普遍的なメッセ−ジがここに響いているのです。

マリアは、「主があなたと共におられます」(28)「あなたは神から恵みを受けたのです」(30)「神にとって不可能なことは何一つありません」(37)と3度、神のことばを聞き、人間的な常識や疑惑や恐れを退けて、「あなたのおことば通り、この身になりますように」と告白しました。ここにマリアの信仰の深さを見ることができます。それは「神のことばへの素直さ」という偉大な信仰です。神の言葉への従順さとも言い換えることができますが、わかりやすく言えば「単純さ」です。偉大な信仰者たちは同時に偉大なおさな子たちであったことを私たちは忘れてはならないと思います。彼らはみことばを素直に受けとめることにおいて偉大でした。

あなたは処女降誕という、いのちの神による新しい生命創造のみわざを受け入れなさいますか。マリヤのように神のことばを素直に受け入れますか。そうならば、あなたもまたマリアと同じ信仰につらなる一人となるのです。

 マリアの信仰…恵みばかりでなく苦難をも引き受ける祈り

 「恵まれた女よ」と祝福されたマリアですが、現実的には大変な危機に直面することになります。婚約者ヨセフのもとにガブリエルが現れ、マリアの受胎について理解できるように導きましたが、他の親族や村の人々がどのように思うか、マリアにとって大きな不安材料だったと思います。「自堕落な姦淫の女」と指さされ、軽蔑のまなざしを向けられ、最悪の場合は婚約解消、姦淫罪で告訴され石うちの刑に処せられることも覚悟しなければなりませんでした。事実、マリアの周囲には、イエス様を私生児呼ばわりする噂が生涯つきまとったようです。しかしマリアはためらいませんでした。信仰のゆえに、神の恵みとともに苦難をも引き受けること、恵みを受けることばかりでなく、犠牲を払うことも覚悟したのです。ここにマリアの信仰の深さのひとつとしての強さがあります。

いざとなったら女性のほうが男性よりも精神的に強いといわれますが本当にそうかもしれません。信仰の豊かさの一つは、「覚悟すべきことは覚悟する」「引き受けるべきことは引き受ける」という芯の強さに見ることができると思います。人間的な意味での性格の強さという意味ではなく、イエス様への愛の大きさといったほうが正確かもしれません。主のために犠牲を払うことを惜しまない愛がその信仰を支えているのです。「受けるよりは与えるほうが幸いです」という与える愛が信仰を支えているのです。神がひとり子さえ惜しまずに与えてくださったクリスマスを前に、私はふと想うことがあります。この1年、私はイエス様をどれほど愛してきただろう、その愛を形にしたとき、イエス様のためになにをどれほど惜しみなく捧げてきただろうかと。イエス様への愛を形にした時、どれほどイエス様への感謝と賛美をあらわしてきたことだろうかと。決して怠けているわけではありませんし自分なりにベストを尽くしてきたと思いますが、それでもなおイエス様の十字架の愛を想うと足りなさを思うのです。恵みばかりでなく苦難をも賜物として受け取らせていただく、十字架の恵みを信じる私たちの信仰とはそのような信仰なのです。                        

 恵みばかりでなく苦難をも引き受けたマリヤを神様は決して孤独になさいませんでした。祈りの友を備えてくださいました。神様は受胎したマリアをエリサベツが住むユダの町へ導き、妊娠初期の大切な時を安らかに過ごすように配慮してくださいました。偉大な預言者バプテスマのヨハネの母エリサベツと主の母マリアとは静かな時をともに過ごしました。

この二人の出会いは、「主によって語られたことが実現すると信じ切った人は何と幸いでしょう」と真実な幸福を分かち合う喜びと賛美に満ちたものとなりました。この二人の出会いと交わりは、教会のまじわりを象徴しているといえます。人間的な不安や孤独や痛みあっても、信仰による互いの交わりの中で、喜び、平安、感謝にかえられてゆく世界がまさに教会です。つぶやきぐち不満が賛美と祈りに変えられてゆく、不信仰から信仰へ引き上げられてゆく、そんな変革が聖霊によっておきる場所が教会なのです。

神の言葉に従い信仰の歩みを始める時、必ずしも周囲の人々が賛成し理解してくれるとは限りません。激しく反対されたり、ののしられたり、妨害されたりすることがしばしば起こります。今までの人間関係が壊れてしまったり、交友関係を絶たれたり、相手が去ってゆくこともあり、孤独を覚える日々が続くことも起こりえます。しかしキリストに召された者たちは、教会で新しい永遠の友、信仰の友との出会いを経験し、祈り合う喜びを知るようになり、その祈りの時間の中からすべての解決の光が輝き出すことをやがて知ります。祈りの交わりは、他のおしゃべりや趣味のまじわりよりも、意味深い充実した恵みの時であることに気がついてきます。クリスチャンとして成熟するにつれて、祈りの友を求めるようになり、2〜3人集まっていつも祈り始めるようになるのです。こうして聖徒の交わりとしての真実な教会が形成され、教会は「祈りの家」へと霊的に整えられてゆくのです。

教会はみことばを信じ、全能の神を信じる者たちの交わりです。できないと信じるものたちの集いではなく、神にあってできないことはないと信じる者たちの交わりです。信仰によって愛と希望をいつでももって励ましあい、未来を見つめて成長しあう者たちの交わりです。

 小さな者を、力ない者を顧みてくださる神様を「大いに喜ぶ」ことは、エリサベツやマリアの喜びにつながることであり、クリスマスの喜びにつながることではないでしょうか。私たちも、「わが魂よ、主を崇めよ! 主を喜ぼう! 」とマリヤとエリザベツの讃美と信仰の交わりに加わらせていただきましょう。

                               祈り

「神にあってできないことはありません」とマリヤは信じました。神のことばを信じ、信頼して歩む者は困難をも引き受けることになりますが、決して孤独ではありません。マリヤにはエリザベツという同じ信仰に立つ祈りあう友を備えてくださいました。教会もまた彼女たちの交わりにつらなる存在です。目に見えるところにしたがって歩むのではなく、目に見えないものを信じ、「信じる者は神の栄光を見る」とのイエス様のお約束に生きることをお導きください。御ことばに素直に生きることをお導きください。
                              アーメン

                                                                           


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