2005年 クリスマスメッセ-ジ

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             2005年12月18日  「失望の闇から希望の光への招き」(ヨハネ1:1-14)

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、
世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、
ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1:9-12)


今週の金曜日から3日間連続でクリスマスの諸集会が続きます。クリスマスは神の御子イエスキリストの誕生を祝う日ですが、ヨハネはイエス様の誕生を「全ての人を照らすまことの光があって世に来た」(
9)とすばらしい知らせを記しています。ところが同時にヨハネは「世はこの方を知らなかった」「民はこの方を受け入れなかった」(10)という厳しい現実をも記しています。神の恵みと人間の罪深さがここには対比されています。

神の御子はベツレヘムの家畜小屋の中で人知れずお生まれになりましたから数名の羊飼いたちを除いてその事実をほとんど誰も知りませんでした。東方ペルシャから博士たちがわざわざ砂漠を旅して、救い主を訪ねてきましたがユダヤ国王ヘロデは誕生した神の御子を受け入れようとはしませんでした。それどころか探し出して暗殺してしまおうとさえ謀りました。

神の御子イエス様と出会うには、まず熱心に「知ろうとすること」、知ったなら素直に「信じ受け入れること」が求められるのです。信仰は決して「盲信や妄信」の世界ではありませんから、正しい健全な知識と理解が大切です。聖書を正しく学び、決してだまされないことが必要です。考えてみますと初めて教会に来て聖書を学び始めた時が一番熱心に聖書を学んだ時期かもしれませんね。クリスチャンになってから安心したのかあまり聖書を読まなくなってしまう傾向があるようです。聖書は「生涯の書」ですから、いつも新鮮な気持ちで新しい年毎に新たな目標を立てて聖書を読み学び続けたいものです。

聖書は「知る」ことから「信じ受け入れる」ことへと進むことを求めています。イエス様を知るには知識だけでなく信頼の心が必要です。イエス様を信じることは、イエス様を実際の生活の中で受け入れ信頼して歩むことを意味しています。

キリストを知り、信じ、受け入れるならばその人の心と人生は「まことの光」によって照らされ導かれ、「神の子とされる特権」という永遠の希望へと導かれます。

1 まことの光

まことの光があるならば当然、偽りの光の存在が前提になっています。偽りの光とは消え去ってゆく光、まことの光は決して消え去ることがない永遠の光を指しています。

この世に存在しているすべての光は必ず消え去る時がきます。宇宙から地球を見ると夜間は日本列島が地図のまま明々と輝いて見えるそうです。北朝鮮や中国の多くが暗闇に閉ざされているのとは対照的だそうです。ところが発電所に大事故がおきれば停電し一瞬にして町中のあらゆる光は完全に消えたちまち深い闇に飲み込まれてしまいます。人口の光は永遠ではありません。太陽の光は大丈夫じゃないかと思う人がいるかもしれませんが太陽もまた未来永劫輝き続けるわけではありません。太陽は核融合反応を起している巨大な活動をしている星のひとつに過ぎませんからあと計算上は60億年も経てば太陽系惑星の全てを飲み込んでしまうほど膨張し、ついには大爆発を起して星の一生を閉じていくと天文学上判断されています。60億年先という途方もない数字ですが、それでも60億年と永遠とでは月とすっぽんの差があります。このように世界にはじつは永遠に輝く光は何一つ存在しないのです。すべてが一瞬のきらめきにすぎません。輝くような美しさも20年も経てばすっかり衰えます。小野の小町も「花の色は移りにけりないたずらに、この世ながめせしまに」と嘆いたように、美貌も容姿容貌の端麗さも20年、30年経てば衰え、年をとっても輝くのは男性の頭だけといえば言い過ぎかもしれません・・が。

2 まことの光となられるイエスキリスト

ではイエスキリストはどんなふうに信じる者の「まことの光」になってくださるのでしょう。

1に、イエス様は失望にみちた暗い人生を照らす光となってくださいます。希望のキャンドルとなってくださいます。

ある作家が「人間はみな失望の名人である」と言いました。大きな岩につまずく人はいませんが小さな石につまずく人が多いように、私たちは日常生活の中で「こんなことで」と思うようなことで失望したり落胆したりしがちです。失望し落ち込み引きこもると人間は考え方もますます否定的、悲観的、短絡的になって建設的なとらえ方ができなくなってしまいます。これを「否定的思考のスパイラル」と表現できます。渦巻き状に落ち込むのです。昔、自殺しようとして睡眠薬飲んだという人から電話がありました。声も話し方もろれつが回らない。危ないと思って「何条飲んだの?」と聴くと1錠。念のため「飲んだ後どうした?」と聴くと気持ち悪くなって「吐き出した」。危機的電話の場合は再確認が必要ですから念のため「救急車呼ぼうか。電話番号教えて」と聴くと「大丈夫です」との返事。声もしっかりしてきましたから一安心。1日中時間があれば考え込み、たっぷり時間を注ぎ込んでいますから神経が疲れきってしまい家族の協力や助けがあっても、見えなくなって「誰も助けてくれない」という否定的な視野狭窄に落ち込んでしまいます。いいことがあっても評価できず悪いことだけをカウントしてしまうのです。これでは本人もつらいし、支える周囲もつらいことと思います。

神様を信じイエス様を信じてから、私は人生を前向きに考える力を得るようになれました。聖書にであうまではずいぶん悲観的な運命論者でした。「いいことなんかは続かない。いつかはどんでんがえしがあり、落胆失望する。ぬか喜びしてれば馬鹿を見る」と、いつも人生を悲観的にとらえて生きていました。ところが次のような神様のことばを聞いた時、私の世界観が変化したのです。

私の下には永遠の腕がある」(申33:27)
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
             (エレ29:11)、

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。万事を益として下さる」(ロ−マ8:28)

この3つのみことばでどれほど励まされたことでしょう。確かに、人生なにごとも自分の思い通りにはゆかないものです。「自分の思い通りに他人も世界も動く」と考えるのは幼児の万能感性格をひきづったまま大人になってしまった証拠といえます。「うまくいく」ようにではなくどんなことがあっても「大丈夫」という自分と世界に対する信頼感が大事なのです。聖書を死ってそんな平安をもつことができるようになりました。神様抜きの人生は不安で不安でたまらず、いつも何かにしがみついていなければなりませんでした。キリストは失望に陥りやすい心を希望で照らし勇気づけ励ましてくださるのです。

2に、イエス様は罪がもたらす心の闇を照らす光となってくださいます。赦しのキャンドルが輝くのです。イエス様は私たちに「罪の赦し」という最大の神様からの贈り物を持ってきてくださいました。罪の赦しこそ神の最大の恵みなのです。

「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです」(エペソ17

罪の赦しといっても現代人にはピンと来ないようです。大人になるにつれて罪の意識よりむしろ恥の意識のほうが強くなるのが日本人の特徴です。罪の意識は神様との垂直の関係の中で感じ取るものですが、恥の意識は他人との水平の関係の中で感じ取るものです。

子供の頃は神様が見てるよ」と言われると「どきっ」としましたが、大人になれば「世間から笑われるよ。恥さらすなよ」と言われると「どきっ」としますね。こどもの時のほうが罪の意識が強いのは「魂」が神様に近いからです。心の良心の感性が豊かだからです。だからこそ「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えなさい」と聖書はやわらかい感性がある期間に神様と出会う大切さを教えています。

もしあなたが、大人になった今もなお、少年や少女時代の感性をもっているならば、すなおに自分の罪を認めイエスキリストの十字架の下で悔い改め、「罪の赦し」を頂くことがおできになると思います。神様の最大のクリスマスの贈り物はあなたが罪の赦しを受け、永遠のいのちを受け取ることなのですから。

3にイエス様は、永遠の未来を照らす光となってくださいます。永遠の命のキャンドルが輝きあなたを永遠の世界に導くのです。

今日一日生きることでへとへとに疲れているのに、死後のことまで考えるゆとりがない」と多くの人は感じています。ところが重い病気やがんの告知など受ければさすがに「自分の死と死後の世界」について考えざるを得なくなります。キリストを信じる者には地上の命だけではなく永遠の命という「もうひとつのいのち」が与えられます。この地上の生活においてどんな肩書きがついていようと結局人間は人間として生まれ人間として死んでゆきます。臨終に際しては残念ながら肩書きなどはみな白紙になります。

最後に神様が求められるのは「あなたは人間の子ですか、それとも神の子ですか」という問いかけです。神様は人間として私たちが何をしたかという働き・業に関心をお持ちではなく、私たちが誰であるか、Being、を求めておられます。生まれながらの人間はみな罪の性質をもっていますから、そのままでは神の国を受け継ぐことができないのです。キリストによって罪の赦しをいただき、新しく神の子供として生まれ変わらせていただかなければなりません。

 キリストを信じる者は「神の子となる特権」が与えられるのですと聖書ははっきり宣言しています。

飼い葉おけに生まれた神のひとり子は、「まことの光」としてわたしたちの過去と現在と未来を照らし続けます。過去の罪や過ちに苦悩し自らを罰し続ける者を「赦し」の光で包みます。失望、絶望、悲しみ、無力感、敗北感に悩まされ「今、ここで」本来の自分を自分らしく自由に喜びをもって生きられない者を「希望と平安」の光で包みます。死んだら一体どこへゆくのか永遠の世界が見えず死を恐れ、罪の裁きと滅びにおびえる者を「永遠のいのちに生きる」救いの光で包み、天の御国にまで導き照らしてくださいます。私の知っているある方のお母さんは臨終に際して「感謝・ハレルヤ・ア−メン」といって安らかに天に召されたそうです。地上の生涯をこのような感謝と安らぎの心で閉じてゆく、いいえ完成させてゆくことができる人生は幸せだと思います。

 神の御子イエスキリストはあなたの心ととあなたの人生を照らす「まことの光」となって、あなたのかけがえのない一度限りの人生を導いてくださいます。今年こそ、本当のクリスマスの意味を知り、本当のクリスマスをお迎えしませんか。


祈り

神の御子イエス様、私の心はしばしば闇に包まれてしまいます。恐れや不安が支配したり、人を憎んだり恨んだりする醜い罪の闇に閉ざされてしまいます。
まことの光であるイエス様だけが心の中まで照らし導いてくださることを知りました。
私の心の闇に光を与え、導いてください。

                                                                        


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