受難節説教 (2006年4月9日) 
マタイ27:1-10  
「十字架の赦しかそれとも人間的な後悔か」

「イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老た ちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。 」
(マタイ27:3-4)



今週は教会の暦の上では、キリストが十字架で死なれた「受難週」です。イエス様の十字架の歩みを黙想し、十字架の恵みに生かされている喜びを感謝したいと思います。


ユダがイエス様をユダヤ教指導者たちに引き渡したとき、ユダの予想を超える
2つの事態が生じました。イエス様がユダヤ議会がくだした死罪判決(神への冒涜罪)を黙って受け入れ、さらにローマ総督ピラトによる裁判にまで進展したことでした。総督ピラトも政治的圧力に屈し自分の正義感に反した「十字架刑」を宣告せざるを得ませんでした。極刑である十字架刑への流れが一気に出来上がってしまったのです。しかも通常は十字架刑を執行しない安息日の直前に!です。

ユダは「後悔」し「私は罪を犯した」と祭司長たちに告白し、報奨金として受け取った銀貨30枚をつき返して事態の収拾を図ろうとしましたがもはや動き出した歯車をとめることはできませんでした。ユダヤ教指導者からは「知ったことか。自分で始末しろ」と冷たくあしらわれ、行き場所のなくなったユダはついに自ら命を絶ってしまったのです。

一方、ユダヤ教の指導者たちもユダから返却された銀貨30枚を神殿の金庫に納めるには後味の悪さを覚え、協議した結果、遠方からエルサレムに巡礼に来た途上で死亡した旅人たちを葬るための共同墓地の購入にあてました。

1 後悔したユダ

ユダは非常に後悔しました。自分のとった行動がとんでもない結果をうんでしまったからです。後悔というギリシャ語メタメローマイは「悔いて心を入れ替えようとする」という意味で、新約聖書に5回用いられています。しかし、聖書が強調する「悔い改め」(ギリシャ語のメタノイア)は、「方向転換をして罪人が神に立ち帰る」ことを意味しています。両者は似ているようで大きく異なります。自分で自分の心を変えようと努力するのが「後悔」ならば、自分で自分を変えることは不可能と知って神に立ち返ることが「悔い改め」です。

イエス様の最初のメッセ−ジは「神の国は近づいている。悔い改めて福音を信じなさい」でした。人間的な後悔には救いがありません。どんなに自分を罰し自分を責め立て、どんな償いを試みようとそこには救いはありません。罪人に必要なことは「後悔」ではなく「悔い改め」です。何とか自分を変えようと自分にとどまることではなく、「神のもとに帰る」ことです。神のもとに帰ることなくして人生は何も解決しないのです。

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(2コリント7:10)

2 イエス様を引き渡したユダ

ユダは銀貨30枚でイエス様を敵側に引き渡しました。「裏切り者ユダ」としばしば表現しますが、「引き渡したユダ」ということばがより正確な表現です。私たちもイエス様を何かに、あるいは誰かに「引き渡す」ことがあってはなりません。イエス様を手放す代わりに何かを得ることがあってはならないのです。イエスは私たちが生涯、愛と献身と忠誠を捧げる対象であり、私たちには十字架の主以外に誇りとするものがあってはならないのです。

主の主、王の王であるイエス様にすべてを委ねるべきだからです。

イエス様は「人の子を裏切るその人は災いである。その人は生まれなかったほうがよかったであろう」(マルコ1421)と指摘されました。イエス様を何かに引き渡せばその結果、どんなに後悔してもどんなに償っても、結局は悲しい結末しか待っていないことをユダの死は私たちに警告しているのではないでしょうか。

3 もしイエス様のもとに帰り、赦しを願ったなら

歴史に「もしも〜なら」や「もし〜だったら」はありません。しかしユダが後悔し悔い改めてイエス様のもとに立ち返ったならばどうなっていたでしょう。一人のモデルがいます。ペテロはイエス様の後をそっとつけて大祭司カヤパの中庭に忍び込みましたが、「あなたもイエスの弟子の一人でなかったか」と問われた時、「イエスなどは知らない」「神に誓って言うが知らない」と3度もイエス様との関係を否認しました。その時、イエス様はペテロを振り返りました。かれはイエス様の優しいまなざしの中で、イエス様が語られた言葉を思い起こし激しく泣きました(マタイ26:76)。

ペテロはイエス様の言葉を思い起こしイエス様の中に赦しを見たのです。裁かれて捨てられる自分ではなく、赦され愛されなお期待されている自分をキリストの中に見出すことができたのです。

ペテロは悔い改めキリストのいのちに新しく生かされ、一方ユダは後悔して自責の念に苦悩しついにいのちを絶ったのでした。イエス様の中に赦しといのちを見出す信仰、イエスキリストの十字架の救いを信じる信仰これこそが福音信仰です。

「あやまちのない人生」などは誰もおくることができません。人は完全でも聖人でもありません。みな罪人であり、過去を振り返れば死んでしまいたいと思うような失敗や間違いや悔いに満ちています。人の目を何とかごまかせても、自分で自分をあざむくことはできません。

ですから、真の解決は「後悔と償い」の中からは生まれてきません。真の解決は、イエスキリストの十字架の中に、赦しといのちを見出すことにあります。イエスキリストのもとに立ち帰るとき、悔い改めてキリストを信じるとき、人生のあらゆる問題に根本的な解決が与えられるのです。

ある先生の結婚式に出席するため福島県を訪れ、猪苗代湖を見学しました。あいにくの大雪でしたが、タクシ−の運転手が「雪は汚いものをみな隠してくれますからいいもんですよ」と言われたので、わたしは「どんなに汚くてもイエスキリストは十字架によって雪のように白く全てを清くしてくださると聖書に書いてありますよ」と証しすることができました。罪は隠したり覆ったりするのではありません。罪はイエス様の十字架の血によって赦され清められるものなのです。

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(1ヨハネ1:7)

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、 雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ118

 過ちを認めたら、イエス様の十字架のもとにきて、罪を悔い改めイエス様に立ち返り、新しい力をいただきましょう。イエスキリストの十字架の中に赦しといのちを見出すことができることこそ私たちの喜びなのですから。     

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