礼拝説教        「あなたの父と母を敬いなさい」      2006/5/14

「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」(エペ6:1)

                            

母の日の今日は、改めて「両親への尊敬」を教えているこの御言葉をじっくり学びたいと思います。

パウロは家庭において、「両親に従いなさい。これは正しいことだからです」(1)と教え、さらに旧約聖書のモ−セの教え「あなた方の父と母を敬いなさい」(出2012)を引用しています。つまり、両親に従うことと敬うこととを同義とみなしています。さらに「正しいこと」とはどのような意味かと調べますとコロサイ320には「両親に従いなさい。これは主に喜ばれることだからです」との教えが並行記事的に記されています。正しいことと主が喜ばれることとは同義的に使われています。幼い子供の頃は父母に従い、大人になってからは父母を尊敬するような「親子関係」を築いてゆくことを主は喜ばれると要約できると思います。

2012、申命516に記されているモーセの十戒では、両親を敬う者には「長生きをする」という約束が伴っています。医学や薬学が発達していない旧約時代において、長生きすることは神様の祝福とみなされていました。今日でも、両親を敬う者は、やはり神様からの祝福を受けることでしょう。大人になった今でもあいかわらず親の悪口や愚痴をこぼし続けている人の心と、親を敬い、「この人の子どもに生まれてきてよかった」といえる人の心とを比べればそれは明らかだと思います。「こんど生まれてきた時は私、絶対に親を換えるからね」と親を恨む子供の人生は決して幸福とはいえないと思います。「お父さんお母さん、あなたの息子(娘)として生まれてきて幸せでした。ありがとう」と親に感謝することができる子供の人生はやはり安らぎに満ちていることでしょう。

父母に従い、父母を敬うことは神の御心に適った正しいことであり、神が喜ばれることであり、多くの霊的な祝福がそこには伴うことでしょう。この聖書の戒めに対して異議を唱える人はいないと思います。この教えは普遍的な真理だからです。

1 主にあって

しかし、問題は全ての親が尊敬に値するりっぱな人徳者であるとはかぎらないことです。子供を殴ったりけったり、養育を拒否したり、無視を繰り返したり、時には我が子に性的な関係さえ強いるような、児童虐待という犯罪をおかす親も決して少なくありません。これから夏になれば毎年のように、車の中に赤ちゃんを置き去りにしてパチンコに興じてわが子を日射病で死なせてしまう親も現れてきます。酒癖が悪くて子供の修学旅行の積立金まで酒代に使い込んでしまう父親に対して大人になった今でも恨みを抱き続けている方のお話をお聴ききしたこともあります。

聖書はこんな親でも無条件で従い敬えと教えているのでしょうか。こどもの人権を奪い子供の生命までも脅かすような親にまで黙って従えと聖書は命じているのでしょうか。

パウロは「主にあって」と但し書きを加えています。何が何でも無条件で親に従えと教えているわけではありません。「主にあるかぎり」という枠をはめています。「主にあって」とは「神の御心にかなうかぎりは」という意味です。ですから親が神の御心に反することを要求するならば子供は、自分を守り、自分の権利をしっかり主張してよいのです。主に従うように親に従うことが求められているのであって、悪魔に従うように親に従うことが求められているわけではないからです。親が暴力を振るえば子供は自分で自分の体と心を守る、あるいは他の大人や地域社会に守ってもらう正当な権利を持っています。時には親を訴えて逮捕してもらってもいいのです。

2 神から委ねられた権威

聖書は「親は家庭という秩序において神が建てられた権威を持っている。だから神に従うように親に従う」という親子関係の特質について教えています。

親が子供に「従うように」と命じることができるのは、家庭において神様が権威を親に与えられたからです。ところが神様から与えられた権威ということを忘れ、親のエゴから、「お前を生んだ親なのだから親の言うことを聞くのは当たり前だろう」と叱れば、子供は「生んでいいかどうか聞きもしないで勝手に生んでおいて、何が親だ! 恩義せがましいことぬかすな」と激しく反発するかもわかりません。子供を養育し教育してゆく上で必要なことは、親の権威ではなく父なる神の権威です。ですからパウロは「父たち、自分の子供を怒らせたりしないで主の教育と訓戒によって育てなさい」(エペ64)と教えています。主の教育や訓戒とは、みことばによって魂が健やかに養われ、神の御前で生きる信仰の成長が促され、社会性が身につき豊かな人間関係を築く能力が育まれることです。なにより大切なことは、親も子もみことばによって共に養われ育て上げられることです。

「親の肉的な権威」は役に立たないばかりかかえって有害ともなりかねません。人を育むのは人ではなく神ご自身であることを思いましょう。

3 対等な関係の中で人は育つ

教育学の観点では「人は対等な関係の中で育つ」という原理があります。たとえば赤ちゃんとお母さんとの関係がそうです。親が赤ちゃんを育てているだけではなく、赤ちゃんを通して親が育てられているのです。赤ちゃんが親を育てているのです。このようにして育児を通して母も育ち子も共に育ちます。ですから教育とは「教え育む」ことではなく「共に育ちあう」共育であるといわれています。そして「喜ぶ力」が育つことによって他の人の「心の痛みをわかる力」も育つそうです。興味深いことに、子供の喜ぶ力は、親が子供の喜ぶことを一緒に喜んでくれること、喜びを分かち合ってくれることによってさらに伸びてゆくそうです。

「聖書にいつも喜んでいなさい」とありますが、喜べることがあるから喜ぶというのではなく、他の人の喜びを分かち合うことで喜ぶ力がさらに育つのだなと思いました。

しかし親子でありながら「対等の関係」に立つというのは本当に難しいことだと思います。夫婦であっても「対等である」ことを保つことはたいへん難しいことです。「オレが食わせてやってるんだ」と妻を経済的に奴隷状態においてしまう夫が少なくありません。ましてや夫婦以上に血のつながりが濃い親子の間で対等の関係を築くことは難しいことと思います。ついつい自分は「親なんだから」というエゴが前に出てしまうからです。

私たちクリスチャンは「神の前に立つ」ということにおいて何の区別も差別もなく対等関係を持つことができます。私たちは御言葉の前に生きるという姿勢において平等です。私たちは神の権威の前に礼拝することにおいて対等です。神様の前にたつとき、人は親子であれ、夫婦であれ、上司と部下であれ、すべての差異を越えてすべてが等しい存在としてお互いを認め、受け入れあうことができるのです。

今日は母の日です。改めてこの日、母が愛をもって育んでくださった恵みを思い起こし感謝しましょう。真の成長は対等の関係の中で達成されます。母が身を低くして幼い私の声に耳を傾け、私の気持ちに寄り添ってくれた。私をひとりの人間として愛してくれた。私の過ちを赦し、未来に望みをおいてくれた。そんな対等のふれあい、愛の関係の中で今の私があることを想わざるをえません。


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