2006年 クリスマスメッセ−ジ

             2006年12月10日  「マリアの讃美」 (ルカ2:1-7)

「わが魂は主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」(ルカ2:46)

1 幸いな交わり

受胎を告知されたマリアは、親族のエリザベツのもとへ身を寄せ、3ヶ月の間、ともに過ごしました。二人の交わりは、祈りと讃美を分かち合う豊かな交わりでした。その交わりを支えたのはマリアとエリザベツに共通した信仰があったからです。マリヤは「主の御心がこの身になりますように」(1:38)と祈ることができる女性であり、エリサベツは「主によって語られたことばは成就すると信じた女性は何と幸いでしょう」(1:45)と証しできる女性でした。聖霊によって未婚のまま子を宿すマリア、不妊の女性であったのに老いてから子を宿したエリザベツ、彼女たちに共通しているのは「全能の神が語られたお約束は成就する」という「神とみことば」への信頼の深さでした。行動を伴う生きた信仰でした。マリアは御心を知った時、自分にどんなにそれが不利でリスクの高い出来事か十分に判断できました。最悪の場合には、婚約破棄・離縁、不義の女として村八分どころか死刑に定められる危険性もあることを承知していました。もし、保身を考えたら「御心がなりませんように」と祈っても赦されるほどの状況でした。しかしマリアは「御心がなりますように」と積極的に献身的に、主に信仰を告白したのでした。エリサベツも夫である祭司ザカリアが神殿で聞いた天使のことばを信じました。子が生まれるまでザカリアからは神を崇めることば奪われましたが、エリザベツは自由に喜びをもって神の良い業をほめたたえ証しできました。不信仰は神を褒めたたえる喜びをその口から奪ってしまうのです。神を讃美できない霊的な淋しさに置かれてしまうのです。

おそらく夫のザカリアは自分がその交わりに加われない口惜しさをほとほと残念がったことでしょう。彼は後にヨハネが誕生した時、その喜びを爆発させ大いなる讃美をささげています。

私たちが神に愛され、神に選ばれ、神の救いに預かったのは、永遠の神のご計画に、小さきものでさえも神に用いられ、神を賛美するためであることを覚えましょう。

マリアとエリサベツはともに祈りあい、分かち合い、お互いに励ましあいながら、それぞれの身にやがて成就する神の良きわざを待ち望みました。彼女たちの交わりからは、疑い、不平、不満、愚痴、批判などは決して語られなかったことでしょう。讃美、感謝、喜び、信頼、信仰が満ちていました。「3人寄れば他人の悪口を言い、一人帰ればその人の悪口を言い、二人帰れば残った人の悪口を帰った二人が途中で言い合う」というジョークが世界中で交わされほど、人間関係はお互いを傷つけてしまう側面をいつも持っています。悪口が喜びというのは悲しいことです。

「私たちの交わりとは、父と子と御子とのまじわりです」(1ヨハネ1:3)

「あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、
徳を高めるためにしなさい。」(1コリ14:26)

2 幸いな交わりから紡ぎ出される讃美

二人の幸いな霊的な交わりは、マリアの讃歌と呼ばれる「最初の賛美歌」(46−54)として記録され、後の世に伝えられました。

マリアの讃歌は「私は主を崇めます」で始まります。崇めるとは「大きくする」という意味です。神様を自分よりも「大きな」存在とみなすことです。大きい(メガリュノ)ということばは原子爆弾の破壊力の単位である「メガトン」の語源になったことばで、世界を破壊してしまうほどの大きさをさしています。天地を創造された大いなる神、全能の神を神とする信仰が小さくなっていないでしょうか。聖書の中に「私たちの神様は小さい。よく探さないと小さくて見えない」という表現は見つかりません。「主は大いなる方、その御名は全知に響き渡る」と繰り返し表現されています。

科学の最先端技術は「物を小さくする」ことです。全てを人間の頭脳で「思い通りにコントロールする」ことです。しかし信仰の世界は、神を大いなるものとすることです。神を自分が思い通りに動かしたり利用することではなく、素朴な信仰で神を仰ぎ神にお仕えすることです。

蓮見和夫先生が、「自分が大きくなってしまうと傲慢になります。物が大きくなってしまうと享楽に走ります。人が大きくなってしまうと劣等感に陥ります」と言いました。傲慢、拝金主義、物欲主義、劣等感、私たちを苦しめる悩みに対する解決は、神を神をとして崇めることの中に隠されています。「主を大きなものとする」そこから私たちの賛美も祈りも日々の会話も始まらなければなりません。マリアは「自分の卑しさを神は省みてくださった」と言います。この砕かれた心があるからこそ、「神のみ腕の力」を大きく信頼できたのです。神の力あるみわざを待ち望むことができるのです。

3 幸いな交わりは、逆転の人生を引き起こす

神は哀れみによって「3種類の逆転」を人生へ信じる者を招きます。それは信仰へ導かれる「3つの門」と言ってもいいかもしれません。

1)傲慢なものをへりくだらせる(51)
2)権力者を引きおろす(52)

3) 富んだ者をむなしくさせる(53)

神を知らないものは、自己中心になり傲慢になり、威張りたがるものです。態度もことばも横柄になり、他の人を下に見下すようになります。人間的な権力を好み、物の豊かさやお金や地位や名声を追い求めるようになります。最後はカネですべてを解決しようとします。そして次第にますます神から離れ、最後には神を否定するようになるのです。何を根拠に神はないと言い切るのか私にはわかりませんが、神はないといいきる者は霊的にその人の魂が末期症状に陥っています。聖書は「愚かな者は神はないという」とばっさり断罪しています。
愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、
忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。
」(詩篇14:1)

人間の罪とは、神に背くことです。旧約では神の定めを不従順によって拒むことでした。新約では、神の赦しと愛を拒むことです。アダム以来、人間は罪の性質を受け継ぎ、傲慢で、自己中心で、神よりは自分を愛し、自分の欲望を満たすことを幸福と履き違えるようになりました。そして全ての人間がこのような支配からは逃れられなくなりました。神様はそのような人間を裁くのではなく、救おうと決心をされ、御子イエスキリストの十字架の身代わりの死によって人間の罪を赦し、キリストを信じる者を聖霊において新しく作り変えようとなさいました。ですから新約においては、十字架の愛と許しを受け入れるか拒むかが問われているのです。神の愛を拒むことが最大の罪とみなされるのです。道徳的にどんなに教育しても人はかわりません。教育の限界があります。神の真実な愛、十字架の愛を知った時に、人は魂から変革させられるのです。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
 救いを受ける私たちには、
神の力です。」 (1コリ1:18)

キリストがマリアを母として私たちの世界に人となって生まれてくださったのは、私たちを裁くためではなく私たちを救うためでした。神を見失い、神から遠く離れた生活をむなしく送っている者に神の愛を知らせ、神のもとに立ち返り、赦しといのちを豊かに受けさせるためでした。人が人として生まれた、神様からいのちを与えられた喜びを回復し、神を喜ぶ人生をエンジョイするためです。そのような目的をもってキリストはこの世に生まれ、あなたのもとにキリストは来られたのです。マリアを母はとして生まれたキリストをあなたの神、あなたの永遠の救い主として受け入れませんか。 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」(1ヨハネ4:9)


祈り

神の御子イエス様、私の心はしばしば闇に包まれてしまいます。恐れや不安が支配したり、人を憎んだり恨んだりする醜い罪の闇に閉ざされてしまいます。おごり、たかぶり、物欲から私たちを自由にし、神様を神様としてあがめる、豊かな心、信仰の心を養ってください。

                                                             


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