2006年12月17日 「飼い葉桶に眠るキリスト」 (ルカ2:1-7)
「マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。
宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(ルカ2:6−7)
ヨセフとマリアは皇帝オクタビアヌスの勅令に従い、彼らの先祖の村であるベツレヘムで住民登録をするために、ナザレから120キロ、およそ5日間の旅をしました。身重のマリアを案じての長旅ですから、彼らがベツレヘムの宿屋についた頃は、もうどこもかしこも人であふれていたと想像できます。ここには3つのキ−ワ−ドがあると思います。
1 宿屋(客間)には彼らの泊まる場所がなかった
当時の宿屋には個室はありませんから、大広間でごった寝をしました。ですから夫婦連れが遅れて到着し、しかも妊婦の上、今晩にも出産するかもしれないとなると、はっきり言って「はた迷惑」と先客たちは思ったことでしょう。いざ出産となればそれお湯だ、タオルだ、産着だと大騒動になり、マリアも陣痛でうなるでしょうし、赤ちゃんが生まれればおぎゃおぎゃとなくことでしょうし、安眠妨害もはだはだしい。「よりによってこんな時に」とみんなが冷たい態度を取ったことでしょう。妊婦へのいたわりも、愛も、新しいいのちが生まれることへの畏敬の念も、祝福の言葉も、そこにはありませんでした。各自が自分のことだけで精一杯だったのです。多くの人でごったがえし、多くの荷物が乱雑に積み上げられ、騒がしい世間話や思い出話しで大いに盛り上がり笑い声が響き渡う中に、神の子キリストを迎える余地などまったくなかったのです。
「客間」ということばを、神を知らないこの世界、あるいは神を知らない人間の心と置き換えてみるとどうでしょう。神を閉め出してしまっている人間の現実の姿とオ−バラップしてきます。この世のことで精一杯、目一杯で、神様を迎える余地がどこにもないのです。
ラジオ牧師の羽鳥明先生が、昔、仕事の帰り、駅前で家族のためにあんこのつまった今川焼きをいっぱい買ったそうです。いいにおいに耐えられなくて、途中でぱくりぱくりと食べてしまったそうです。家に着くとなんと奥さんが特別に「すき焼き」を用意して子供たちもお腹をすかし待っていたそうです。今川焼きでお腹が一杯になってしまっていた先生は、その「すき焼き」が食べられなかったというエピソ−ドでした。
もちろん、あんこと牛肉を一概に比べることはできませんが、あまり重要でない物、つまらないもので、心を満たしてしまっていると、一番大切な物を心に入れる余地がなくなってしまいます。無くてならない大事な物は人生でそれほど多くはありません。余分なもの、不必要なもの、霊的な価値が乏しいもので一杯になり、パンパンにふくらみ、場所がなくなってしまっていないでしょうか。天に属する大切な宝をまず心の倉に収めましょう。ただ一人の救い主、御子イエスキリストを迎えることから、良き物で満たされた真実な人生が始まるのですから。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、
それに加えてこれらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)
2 布にくるんで
昔のユダヤでは生まれてきた赤ちゃんを麻布でくるんで寝かせました。こうすると赤ちゃんの気持ちが落ち着いてよく眠ることができるそうです。
この世に来られた神の御子が最初に身にまとわれたのは1枚の「亜麻布」だけでした。イエス様は王の王、主の主としてお生まれになられましたが、生涯1度もきらびやかな王の衣服をまとわれたことも、鎧甲に身を固められたこともありませんでした。「平和の君」であるイエス様にはふさわしい衣ではなかったからです。イエス様は謙遜、柔和、寛容、親切、自制といった「愛」の衣を生涯、身にまとわれました。十字架の上で死なれた時には、兵士たちがイエス様が身にまとった衣服をみなはぎとり、くじ引きで奪い取ってしまい、裸同然の姿で十字架に釘づけられました。しかし、目に見えませんがイエス様は永遠の「赦し」という美しい天の衣をまとっておられました。
平和の君であるイエス様は、私たちの人生に、赦し、和解、平安、謙遜、相互理解、喜び、支え合いの心をもたらしてくださるお方です。怒り、争い、憎しみ、差別、偏見、悪口、陰口、叱責、無視、拒絶によって傷ついてしまった私たちの心と魂を、救いと癒しの衣でくるんでくださるのです。ですから、安心してイエス様のもとにだれでも近づけるのです。鎧を身にまとった人のもとには「怖く」て誰も近づけません。りっぱな衣服をまとった人のそばにはくつろいで「ありのまま」の自分でいることができません。ですから、人間関係には「安心感」や「信頼感」がとても大事なのです。安心を与えてくださるイエス様のもとで緊張する必要などはありません。心のやすらぎ、心の「ほどき」を受けてください。「私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」(マタイ11:28)とイエス様は私たちを招いてくださったお方なのですから、イエス様のもとで何よりもこのすばらしい「安心感」を十分に受けとってほしいのです。
3 飼い葉桶に寝かせた
汚れた臭い飼い葉桶にイエス様はやすらかに眠っておられました。家畜小屋で生まれることを願う人はいません。ましてや愛しい我が子を冷たい風が吹く中、飼い葉桶をゆりかご代わりにしようとする母親もいません。つまり家畜小屋も飼い葉桶も神の御子を宿すには「ふさわし」場所では決してないのです。ところがそのふさわしくない場所で神の御子イエス様は生まれ、ふさわしくない場所に身を委ねてくださいました。神の愛は人間の常識をいつも覆してしまうのです。
動物用の飼い葉桶を、罪と欲に汚れた私たちの生活と心と置き換えてみましょう。人間としての尊厳や誇りさえも失いかねないような浅ましい醜い考えにとらわれたり、憎しみや怒り、復讐心といった激しい攻撃感情に突き動かされることがしばしばあります。一方反対に、自分で自分を「人間以下」だとこき下ろし、激しく自己嫌悪し、人間であることの証しすら自分で信じられなくなるほど強い不安に揺れ動いてしまうこともあります。飼い葉桶に等しい自分を痛感するような試練のときが人生には生じます。しかし、そんな「飼い葉桶」に等しい自分自身に気づかされたまさにその時こそ、キリストを迎えるのに最もふさわしい時として、神様は用意してくださっているのです。しばしば英語で、魂の危機(クライシス)はキリスト(クライスト)と出会うチャンスとゴロあわせで表現されます。人生のピンチは救いのチャンスともなりうるのです。
私が22歳の時、飲酒運転をして人身事故を起こしながら、なお嘘をついて相手と示談交渉をしてました。教会のクリスマス集会で一人の兄弟が「飼い葉桶」のような汚い醜い罪の心にこそ、神の御子キリストは来てくださるのです。そこを住まいとして下さるのです。神様の愛は自分の真実な姿、それは飼い葉桶のような罪に汚れた自分自身を知った砕かれた心に注がれるのですと教えて下さいました。もしその時、清くなければイエス様が嫌われると教えられたら、次の日から私は教会にきっと行けなくなっていたと思います。教会に私がいる場所を見いだせなくなっていたことでしょう。「イエス様は罪人を救うために来られた」のです。私はその時、安心して、イエス様を、飼い葉桶に等しい罪深い心にお迎えすることができたのです。
あなたもイエス様をあなたの心に迎えませんか。イエス様の愛は罪深い心に注がれるのです。
祈り
神の御子イエス様、私の心は決して金銀の器ではありません。家畜小屋の飼い葉桶に等しい汚れと罪にまみれています。その全てを神様はごらんになっておられます。それでもイエス様は私を愛し、私を救うために、その汚れた心の中に宿ろうと呼びかけて下さっていることを深く感謝します。