2007年 元旦礼拝 「主の家に行こう」


「人々が私に、「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、私は喜んだ。エルサレムよ。
私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。エルサレム、それは、よくまとめられた町
として建てられている。そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。
       イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝するために。」(旧約聖書詩篇122:1-4)                              

新年あけましておめでとうございます。
2007年の新しい年が祝福に満ちた良き年でありますようにとお祈りいたします。

昨晩の大晦日からもうすでに京都や奈良の有名な神社仏閣には初詣の参拝者が押し寄せています。商売繁盛、無病息災、交通安全、家内円満、合格祈願、良縁祈願が祈願のベスト6といったところでしょうか。もし「他の会社が倒産してもわが社だけはうまくいきますように」、あるいは「他の人が落ちただけ私の合格する可能性が高くなるのでひとつよろしく」というようなエゴイズムの見本のようなお祈りが、100円玉1枚で祈られるとすれば淋しい気がしますが、きっと多くの方が純粋な気持ちで1年の幸を願っていると信じたいと思います。たとえ、1年に1度とはいえ、「祈る心」を忘れずに、目に見えない大いなる存在に手を合わせる敬虔さを回復することは人間本来の自然な姿であると私は思います。聖書にもこのように記されているからです。

「 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを
 与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで
 見きわめることができない。」(伝道3:11)

今日の箇所には旧約時代、紀元前1000年ごろ、ダビデ・ソロモン王の時代以後に、主の神殿が建てられている都エルサレムへ巡礼の旅に出かけた詩人の喜びと感動がつづられています。モーセの律法では年に3回、神殿に詣でることが命じられていましたが(出エジ23:17)、遠い地域に住む人々にとっては容易なことではありませんでした。いい機会にめぐり合わないと願いはあってもなかなか思い切ったことは行動に移すことはできないものです。

1 さあ、主の家に行こう

詩人は「さあ、主の家に行こう」(1)と友人たちに誘われ意を決してエルサレムへの巡礼に旅立ちました。そして、旅を終えついにエルサレムの城門の中に入る(2)と、そこはかつてダビデ王が都と定め、神殿を建設した美しい町であり、国中から多くの部族の者たちが礼拝をささげるために集まり、町は活気を帯びていました(3)。エルサレムに到着し、詩人はあらゆる危険からも守られた感謝と喜びを感謝しています。交通の不便な時代、無事に目的地に到着した喜びは格別であったと思われます。

キリスト教会は身近な地域にありますからわざわざ長旅をして礼拝に来るという方は多くはありません。ところが、教会が近いと「まだ30分ある」と直前まで家事に追われ、雑事を済ませようとして、礼拝に気持ちが集中しなくなることがあります。ところが遠方からの場合、最初から「1日がかり」と心を定めていますからかえって礼拝のために十分に心が整えられるというメリットがあるようです。いずれにしろ教会堂に入ったならば、静かに感謝の祈りをささげ、道中が安全に守られたことをまず感謝する「心」をこの詩人のように豊かに養われたいものだと思います。

2000年の3月にイスラエル旅行をしゴルゴダの丘の教会に私たちが入った時、現地に住むクリスチャンが祈りをするため会堂に入ってくるや否や、ひざまずいて祈り始めた敬虔な姿を私は忘れることができません。


2 エルサレムのために祈ろう

さて、旅を導いた指導者は巡礼者たちに「さあ、エルサレムのために、その繁栄を祈ろう、そうすればエルサレムを愛する人々もまた栄える」(6)ことになろうと呼びかけました。エルサレムと神殿の「平和」のために祈ることは尊いことです。エルサレムに平和と安定がなければ、イスラエルの民は祈りと礼拝を落ち着いてささげることができなくなるからです。

現在のエルサレムは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という世界3大宗教の共通の聖都とされ、エルサレムの支配を巡って政治的・宗教的に複雑で難しい問題を抱え、暴動、流血、テロが頻発しています。平和の都が火薬庫のような紛争の都となっていることは否めません。だからこそ、エルサレムに真の平和がもたらされるならば、世界中のどんな民族的紛争も宗教的対立も相互理解と和解を基盤とした平和解決にむけて大きく進み出すことができるのではないでしょうか。エルサレムはまさに世界平
和の実現のために人類に差し出されている試金石のような意義を持つ都であると私は
思います。だからこそ、エルサレムの平和のために祈ることは、全てのクリスチャンにとっても意義深いことだと思います。

私たちクリスチャンは日曜日ごとに教会堂に集って礼拝をささげ、神の家族としての交わりを大切にしています。教会に平和が満ち、神の平安が信徒の交わりをささえているから可能となるのです。教会が世俗の出来事に巻き込まれ、教会内に人間関係で争いがあり、不信やつぶやきで満ちていたならば、真の礼拝をささげることが難しくなるでしょうし、交わりもどことなく空々しいものとなると思います。神様が導いてくださった教会の平和と平安を祈ることは神の御心にかなった「良き」こと、祝福を受けることでもあるのです。

3 祭司の祈り

さらに詩人は
「彼の大切な兄弟や親しい友人のために」(8)エルサレムの平和と繁栄を祈りました。エルサレムとそこにある神殿は、礼拝に来た自分のために存在しているのではなく、むしろ礼拝に一緒に来れなかった「兄弟や姉妹、友のために」存在するのだと考えていたからです。「悩み苦しんでいる愛する同胞たちの救いのためにエルサレムと神殿は存在している」と彼は信じていました。あらゆる部族の人々が集い、あらゆる年代の人々が神殿に集うのは、自分の繁栄と祝福を祈り求めるためではありませんでした。もしそうであるならば神殿の礼拝者たちは、ご利益集団の群れに過ぎなくなります。イスラエルの民は神様にとって「祭司の国」でした。

「 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人に
  あなたの語るべきことばである。」(出エジプト19:6)

ですから巡礼者たちは、自分の周囲の人々の救いを祈る、神の民イスラエルの罪の赦しを神に祈る、愛する同胞の病気や怪我からの回復を祈る、苦しみに遭遇している人々のために執り成しの祈りをささげる純粋な祈りの聖所として十分に役割を果たすことができるように、常にエルサレムと神殿が平和を保つことができるように心から祈ったのでした。エルサレムや神殿が騒然とし落ち着きがなく不安定であれば、「祈りの家」としての聖性が保障されません。それはエルサレムにはふさわしくない姿です。

教会もまた現代において「祈りの家」としての霊的な機能を有しており、平安に満ちた「聖なる空間」が必要だと思います。霊的な平和が、平安が、シャロームが教会に満ちていることが必要なのです。
そのような教会は祈りの霊性がますます深められることでしょう。執り成しの祈りの祝福が教会から地域全体へと及んでゆくことになるでしょう。

詩人は最後に、「私たちの神、主の家のために」(9)祈ろうとしています。神ご自身と神の家のためにエルサレムに平和を祈ろうとしています。だれのためでもなくただ神のために、神の栄光とその御名があがめられることを願っています。

かつてソロモン王が神殿を建設し奉献式を行った時、「永遠なる神は決して人の手によって造られたどのような建物にもお住にならず拘束されるお方ではないけれど、「私の名をそこに置く」(1列王829)と言われたゆえ、「神が臨在される聖なる場」、他の場所とは異なる場とされていることを告白し感謝しました。神がそこにご自分の名をおかれたゆえに、聖いものとされたのです。それゆえ神を崇め、栄光に満ちた神殿を囲むエルサレムの平和と繁栄を願おうとしたのでした。  

新約聖書の時代には、教会がキリストの臨在する新しい「神の家」とされました。キリストが現臨され、聖霊の宮とも呼ばれています。

旧約の詩人が「さあ、主の家に行こう」とイスラエルの民に呼びかけましたが、そのことばはそのまま、「さあ、教会へ行こう」とおきかえることができます。
主の家において、教会において、あなたの神であるキリストをほめたたえましょう。その時、あなたの人生を変える、新しい豊かな祝福が、神の平安・シャロ−ムが天から
もたらされるのです。

あなたにとってこの1年が、主の家でまことの神と出会われる、
人生最大の喜びを見出される年でありますように、心からお祈り申し上げます。


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