「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。
見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には
主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、
王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」(イザヤ60:1-3)
新年あけましておめでとうございます。
2007年の新しい年が祝福に満ちた良き年でありますようにとお祈りいたします。
イザヤ60章から62章は、イザヤ書全体の中でも重要な箇所でもあり、エルサレムと神殿の再建が主題となっています。時代背景を説明しないと正しく理解できませんので簡単に紹介します。
1 神殿建設の挫折
イスラエルはソロモン王の死後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しました。北イスラエルはアッスリア帝国によって滅び、南ユダ王国もついにBC587年7月にバビロン帝国の侵略によってエルサレムは陥落し、王も民も奴隷としてバビロンに連れ去られました。これをバビロン捕囚といいます。しかし50年後、ペルシャ帝国がバビロンを征服し、国王クロスは奴隷となっていた諸国民に帰還命令を下しました。さらにユダヤ民族の精神的シンボルであるエルサレムと神殿再建を許可し必要な資金の援助の約束まで与え、さらにバビロン軍によって神殿から略奪された聖なる備品類もすべて返却されました。
約5万人のユダヤ人が意気揚々と祖国に帰って来ましたが、50年の間にエルサレムはすっかり荒れ果てていました。町の再建を始めたものの周辺のサマリア人たちの激しい妨害や攻撃に日夜悩まされすっかり意気消沈してしまい、神殿再建は早々と挫折してしまいました。ハガイ書には「ヤーウェの家を建てる時はまだ来ていない」(1:2)という民の言い訳が記されています。自分の生活の苦境と不安から「おのおの自分の家のことだけに忙しくしていた」と人々の心境が神殿建設からすっかり遠のいてしまっていた様子が記録されています。おそらくこのような時期に預言者が遣わされ、60―62章のメセ−ジを民に語ったと考えられます。
歴史的には神殿の工事中止から18年後、BC520年に二人の預言者ハガイとゼカリアが遣わされ、彼らの励ましによって神殿工事が再建され、ついにBC515年3月に神殿は完成しました。このような時代背景を踏まえて改めて60章に目を向けましょう。
2 眠りから目覚めなさい
預言者は意気消沈している民に向って「おきなさい、目覚めなさい」と呼びかけています。長い夜の眠りから目覚める朝が来た、朝の太陽があなたを照らしあなたの顔が輝き出したと励ましています。神の宮が異邦人の手によって破壊され、主の選びの民であるイスラエルが異邦人の奴隷となるという悲劇はユダヤ人の誇りを打ち砕きました。帰還したものの極度の貧しさの中で信仰も失いかけていました。荒れ果てた祖国に戻ってもこれからどうしたらいいかわからず自信を失い無力さの中にうち沈むばかりでした。
しかしヤ−ウェなる主は、そのような民に対して「あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いている」と励ましました。「光が来て、輝き、現れ、照らし出す」という言葉は、みな、朝、太陽が昇って夜の闇に閉ざされていた万物を照らし出す光景を意味しています。海岸で朝日が昇りだすと海面がキラキラと輝き出す光景に感動した覚えがあります。海が発光することはなく、太陽の光を反射して輝くのです。イスラエルの光はヤ−ウェであり、教会とクリスチャンの光はイエスキリストご自身です。イスラエルの上にも教会の上にもまことの光が輝き、罪と無知の暗闇を照らし出すのです。
「イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は
暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)
預言者は神の民イスラエルに対して、主なる神はあなたがた決して忘れず、見捨てず、あなたがたのもとに再び来られた。だからあなた方も主の光に照り出され、輝き出すことができるのだと希望を語り、神殿の再建に向けてユダヤ人の心を元気づけました。
彼らの嘆きと無力感は主なる神を仰ぎ見ず、自分たちの置かれている現実だけを見てしまっていたからです。
新約聖書は「いつまでも続くのは信仰と希望と愛である」と教えています。私たちの希望の源は主イエスキリストであることを忘れてはなりません。キリストを見失うとき失望や無力感が夜の闇のように包みこみ、失望・あきらめモ-ドにダウンし悪循環が再生されます。
神学校時代にある先生が、「クリスチャン生活は、モ−タ−ボ−トに乗って対岸を見ながら前進するという姿ではなく、むしろ手漕ぎボ−トに乗って目的地に対しては背を向けながらオ−ルを漕いで進むようなものだ」と教えてくださいました。ボ−トに乗って漕ぎ出す時、顔はいつも自分の出発した岸辺を見ています。私たちの出発点、私たちの新しい人生はどこから始まったでしょうか。イエスキリストの十字架のもとで罪の赦しを頂き、聖霊による新生の経験に預かり、古い自分に葬られキリストをともによみがえらされた「十字架の恵み」にあるのです。クリスチャン生活は何か目新しいことを追い求め続ける生活ではなく、生涯ただひとつの大きな恵み・キリストの十字架の愛を感謝し喜ぶ生活にほかなりません。
キリストを仰ぎ見るならば私たちはいつでも力を受けることができるのです。私たちの無力さは私たちが置かれた環境の問題ではなく、私たちがキリストを見失っていることに最大の問題があるのではないでしょうか。
2 信仰をもって見渡しなさい
4節では、起きたならば次に「周囲を見渡せ」と神様は命じています。そして、あなたには何が見えるか報告せよと神様は呼びかけておられます。
まずイスラエルの「子供たち、娘たち、子孫たち」が遠くからエルサレムに集ってくると約束されています。信仰の目はその姿を映しているでしょうか。文字通リ「子供たち」と理解するならば、教会にクリスチャン家庭の幼い子供たちが多く呼び集められることは大きなしるしといえると思います。彼らはオリ−ブの若枝であり未来の教会を担う神様の宝なのですから。
次に諸国の王たちが財宝を携えて神殿にやってくる。東や南東アラブからはらくだの群れが、南の砂漠地方からは羊の群れが、南のサウジアラビア地方からは王たちによっておびただしい黄金が神殿に奉献される。しかも口々に彼らは主の名を讃美しながらエルサレムに礼拝のために集ってくる。そして、これらの良きささげものによって「私は私の美しい家を輝かす」(7)と神は喜びを現しています。
驚くことに、陸地からばかりでなく、西の地中海のかなたからも、離散したユダヤ人が還ってくる。世界の果てスペインの大きな港町であり最大級の商船隊を有するタルシシからも大船団にのって異邦人たちも集ってくると9節には語られています。神殿に集い礼拝をささげようと願う人々のためにエルサレムの城壁の門は閉じられることなく、常に大きく開かれています。それはこの都の中がシャロ−ム・神の平和と平安で満ちているからでした。神の民が「輝いているから」でした。
主がご自身の民を輝かせる時、何が起きるでしょうか。多くの異邦人たちが神の民を照らす光に引き寄せられ、主の宮にやってきて、尊い救いに預かり、神への礼拝者と変えられるのです。悲しいことですが一番身近な家族が最大の信仰の迫害者になって立ちはだかるということがしばしば生じます。しかし、クリスチャンの妻あるいは夫によって、未信者の配偶者もまた「聖く」されています。特別に神様によって選び分けられているのです。
「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。」(1コリ7:9)
私の夫や子供はこのままでは地獄行きだから何としても救わなければと熱心になることによって反って家族につまずきを与えてしまっていることが多いのではないでしょうか。聖なるものとされているのだからきっといつの日か神様のお役に立つ日がやってくると期待し信頼し待ち望むことによって自然な証しができるのではないでしょうか。私たちが家族の中でまず最初に救われたのは、私たちが家庭の中にあってアブラハムの祝福の基となるため、神の祝福の泉となって祝福が家族に及んでゆくためなのです。
驚くことに、「私は私の美しい家を輝かす」と言われる主は、異邦人たちを礼拝に招き彼らが携えてくる捧げ物を受け入れ、豊に用いて、主の家を美しく輝かせることをよろこんでおられます。
堀池チャペルが1990年に完成したとき、1階部分の改装費は100万円しか用意できませんでした。大掛かりな改装となりましたが、業者さんが「教会さんのためならそれで結構です」と引き受けてくださいました。神様の聖い宮の建設に携わることを彼らにとっては特別に感慨深い祝い事と受けとめてくださり、協力することはむしろ喜びと感じる職人気質を持っておられるようです。神様がその労に報いを与えてくださることでしょう。視点を変えれば、主の宮に奉仕することによって主に招かれているのです。
まず主が御自分の民を照らし輝かせます。主の民が輝くことによって異邦人が神のもとに招かれます。異邦人の捧げ物がいっそう主の宮を美しく輝かせることによって神の民がさらに神の元に立ち返ってきます。そのような相乗効果、相関関係が見られることもこの60章の大きな特徴といえます。
主があなたを照らし、あなたを輝かせてくださる1年でありますように。
「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、
自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇る
ことができます。」(ピリピ2:16)