11月のメッセ−ジ


  宗教改革記念日礼拝

 「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
  価なしに義と認 められるのです。」(ロ−マ3:24)

10月31日は、ドイツのマルチン・ルタ−が「95箇条の質問状」をヴィテンベルグ城門に掲示して教会の聖書的回復を願った日であり、プロテスタント教会の暦では「宗教改革記念日」とされています。ルタ−が強調した「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」は福音主義プロテスタントの三大原理と呼ばれています。 今朝の宗教改革記念日礼拝では3つの点を学びましょう。

1 義となるのではなく義とみなされる

人間が精進努力して善行功徳を重ねることによって、次第に「義と成り」、義人となるのではなく、キリストの十字架の購いすなわち罪の赦しを信じる信仰のゆえに、神が「義と宣言して」、義人とみなしてくださる! これがルタ−がついに到達した福音的確信でした。自分の義を努力して獲得するのではなく、キリストの義が神の恵みによって着せられ、与えられることを理解したのでした。ルタ−は自分が神に裁かれる存在ではないかと深い恐れに苦悩していました。自分の努力で義が増減するならば、救いの確信は不確実で相対的なものになってしまうことでしょう。ルタ−は、福音を真に理解したときに確かな確信をみことばに見いだし、恐れから完全に解放され、心の自由を得たのでした。


2 義人にして同時に罪人

ルタ−は「キリスト者は、罪を赦された罪人」にすぎないと言いました。キリストにあっては完全な神の子であり、この世にあっては完全な罪人なのです。ですから私たちは隣人に対して完全を期待したり、要求してはなりません。人間は不完全でどこまでも自己中心です。交わりが深まれば深まるほど、相手の欠陥が見えてくるものです。それがつまづきとなったり、相手への非難となりがちです。人間の不完全性と自己中心性を十字架の赦しの中におくことが、じつは隣人への愛といえます。

クリスチャンはクリスチャンから傷つけられることがあります。この世の人々から受ける罪を赦すことができても、クリスチャンから受けた罪をなかなか赦せないというジレンマに苦しむことがあります。クリスチャンといえども一人の罪人にすぎず、怒りや憎しみの思いに苦悩することもありのままの姿といえます。ですから救いを受けた私たちも、一人の罪人として日毎に福音を聞き、悔い改め、罪の赦しを頂き、癒しを経験し続けてゆくのです。

3 十字架の神学

ルタ−は十字架の栄光をほめたたえました。罪人の私たちはいったいどこで神を知り、どこで神の栄光を見ることができるでしょうか。ルタ−は、十字架につけられたキリストにおいてのみ、私たちは真実な神を知ることができ、恵み深い神とお会いすることができると信じていました。

自分の罪深さを知る人は「だからこそ、自分の罪を自分で償わなければならない。罪深いからこそ、人一倍努力しなければならない」と考えがちです。このように自分の過ちは自分で償うべきであるという考えは、道徳的にも理性的にも受け入れやすいものです。おのずと行いによる救いの道へと進みがちです。

一方、福音はキリストの十字架による無代価の赦しの中に罪人を招き入れます。このように神が差し出して下さった福音と赦しは、信仰によってのみ受け入れることができる神の恵みです。

ですから福音は、行いによって獲得する救いとは異なり、信仰によってのみ受け取ることができる救いといえます。ところが、生まれながらの私たちには、信仰によって神の恵みを受け取らせていただくということが、実はとても受け入れがたいことなのです。自分で償わなければならないという「罪滅ぼし」的倫理意識が強すぎて、神の恵みである赦しにゆだねることがなかなかできないからです。ルタ−は十字架の赦しに徹底的に生きた人でした。罪人が罪赦され、神の前に義とされるただ一つの道は、「神の御子が十字架で身代わりとなって死んでくださり、罪を完全に償って下さった」という、神の恵みの福音の中に備えられているのです。