11月のメッセ−ジ   2002年

「神の国の希望」 

「目に見える望みは望みではありません」 (ロマ8:24)

今年も宇治バプテスト教会の「召天者記念礼拝」を迎えます。すでに、教会の召天者名簿には15名のお名前が記載されるようになりました。イエス様は「神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住まいがたくさんあります。」(ヨハネ141-2)と約束されました。この住まいはマンションを指す言葉です。一人一人が孤立して住むのではなく、愛の交わりの中に生きることが示唆されています。イエス様は私たちにそのような永遠の愛の交わりを約束してくださっているのです。天国にもし「宇治バプテスト教会・マンション」があるならば、ずいぶんにぎやかになりつつあるのではと想像しています。

この地上では孤独を味わうことがしばしばあります。どんなに愛し合っていてもふと行き違いを覚えて寂しさを覚えることもあります。夫婦であっても親子であっても兄弟であっても。それは不完全な私たち人間の持つ限界でもあり、多くを願ってもかなえられないことかもしれません。しかし天国ではもう孤独ということばは存在しないのです。地上での生活では得られない深い慰めがそこには用意されています。

今年の五月には、開拓時代から多くの奉仕と祈りをささげてくださった伊東俊通兄(九十五歳)が、天の御国に移ってゆかれました。私にとっては特別な記念式となっています。宇治教会にまだ信徒がいないおよそ20年前、ご夫婦で礼拝につどい教会を支えてくださいました。

忙しくしている私たちのために子供をいつも自宅に引きって見てくださいました。ですから最初に覚えたことばは「じいちゃん、ばあちゃん」でした。出会っては別れてゆく繰り返しの人生、会者離別の無常の世の中で、20年近い交わりが与えられ最後まで信頼の心を持ち合うことができたことは神様の恵みだと思います。ひとりひとりとの出会いを本当に大切にしてゆきたいものですね。人間の絆はきれてしまうことがあるかもしれませんが、信仰による神の家族のきずなは永遠の御国においても続くのです。

 さて、目に見える望みはほんものの希望ではないと聖書は教えます(8:24)。

なぜなら目に見えるということはやがて見えなくなるときが来ることを意味するからです。形あるものがかならず壊れてゆくことは、罪によってもたらされた無常の世界の実態です。ですから目に見えるものにとらわれることは悲しみを深めることになります。

地上の生活を終えたあとに用意されている「永遠の国」での「永遠の生活」に確かな望みをおくことによってのみ、むなしさと悲しみの連鎖から突き抜けることができます。十字架で死なれ、三日後によみがえられたイエスキリストのいのちに結び合わされてゆくとき、「日々死に向かって生きつつある」という逆説的な人生を歩む私たちにも希望が輝くのです。

先日、京都大学大学院の藤田教授の興味深い研究が紹介されていました。1本の棒の真ん中を布で隠しても人間は1本の棒だと認識できます。チカパンジ−やアカゲザルという霊長類も1本の棒だと認識できます。しかし鳩などは二本の棒があると認識すると言うのです。つまり、目に見えない物はそこに存在しないと理解していると言うのです。目に見えなければ存在しないと認識してしまうのは、生物として進化していないことを表しているのだそうです。

神の国も永遠の命に私たちを導かれるイエスキリストも、天の父なる身様もそれらはどれも観ることも触ることもできません。しかし、だからそれは存在しない事柄なのだとは決して言えません。いいえ、むしろ聖書は私たちに、目に見えない事柄の中にこそ大切なものがあると教え、「もしまだ見ていないことを待ち望んでいるならば、忍耐をもって熱心に待ちましょう。」と呼びかけています。私たち人間は年を重ねるに連れて、やはり宗教的になるものではないでしょうか。目に見えないものの尊さ、価値が深くわかってくるからだと思います。

私たちのからだのあがなわれることを待ち望んでいます。私たちはこの望みによって救われているのです
(24)

からだがあがなわれるとは、私たちに新しい朽ちない体が与えられ、永遠の神の国で生きることができることを表しています。この肉体というものは残念ながら年とともにふるび衰えてきます。私も50を超えてしまいました。牧師仲間での会話も最近は、健康のことや病気のことが話題になります。からだのこと、健康のことで悩まされることがますます増えてゆきます。けれども、私たちは天国に入るときには、私たち自身のすべての罪が赦され、魂が清められ、朽ち行くからだも復活の体に新しく変えられ、もはや老いも病も死も二度と私たちを支配することができない状態にされます。これが「体が贖われる」ことの意味です。

私たちは今、15名の召天者のお写真を見せていただいています。ひとりひとりにそれぞれの人生がありました。長寿を全うされた方、若くして病で世を去られた方、一粒の麦となられた方、私はそのひとりひとりの臨終や葬儀にも立ち合わせていただきました。肉体の苦しみから解放され、天の御国で永遠のからだにあがなわれ、神とともに平安のうちに憩っておられることと信じております。それが私の慰めでもありそして希望でもあります。

私の母も54歳でガンで召されました。入院してわずか5日のいのちでした。母のやつれた姿を見て言葉が出ませんでした。なぜ今まで気がつかなかったのかと妹を責めてしまった覚えもあります。けれどもそんな母がその5日の間にイエス様を信じ受け入れ救われました。

母は病で死んだのではなく、神様が天国へ召してくださったのだと思えるようになりました。そして母の死を通して妹がクリスチャンになり、家内のおばが救われ、弟夫婦、最期には私の父も信仰に導かれました。神様のなさるこことの恵みの深さは図り知ることができません。おひとりのひとりの死には神様からの深いメッセ−ジがこめられています。

    静思の中に、私たちも今、天国からの大切なメッセージを聴き取らせていただきましょう。

                         (二〇〇二年度召天者記念式説教)