10月のメッセ−ジ 2003年
「遣わされなくてはどうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。良いことの知らせを伝える人々の足はなんと立派でしょう。」(ロマ10章15節)
私は子供のころ、宣教師が開拓したかまぼこ型のプレハブ造りの教会に父に連れられ通っていました。いつも明るい笑顔で迎えてくださり、当時としては珍しいポップコーンをよくご馳走してくれた懐かしい思い出があります。
彼らはイギリスやニュージランドから派遣され、戦後の混乱期に来日した宣教師でした。長い船旅、劣悪な環境の日本、言葉や文化の壁、幼いわたしなど考えも及ばない多くの苦労をされたに違いないと思います。
神の召しにこたえ、献身して神のことばに仕える牧師、伝道者、宣教師といった人々の存在とその働きは神の喜びとなっています。私たちは敬意の念と感謝の心を忘れてはなりません。
今、日本には約八千人の牧師、二千人の宣教師、約三百人の日本人宣教師、あわせて約一万人が働いています。約一万九千五百人いる弁護士の数の半分に過ぎません。ところが今や法曹界は思い切った制度改革をして、法曹人口をさらに増やそうと真剣に取り組み始めています。
一方、キリスト教会に目を向けると、二〇一七年までには現職牧師約五千人が高齢のために引退すると予測されています。そのために、毎年二五〇名の牧師が神学校を卒業し赴任しなければ現状が維持できないと危惧されています。
江戸時代末期の一八五九年にプロテスタント宣教が始まって以来、およそ一四五年経ちました。日本では毎年三十万人がミッションスクールを卒業しています。結婚式はキリスト教スタイルが主流となりました。にもかかわらず日本の宣教は目覚しい進展を遂げていません。
この厳しい深刻な事態を打開するには、多くの伝道者を「育てる」教会へと私たちは意識改革を進める必要があると思います。
定年退職後、余生を神にささげようと神学校に入学したり、教会のスタッフとして奉仕する熟年者が増えていると聞いています。
残されている時間は多くありません。私たちは礼拝の恵みの座から、家族や職場や隣人のもとに遣わされてゆく「宣教する神の民の共同体」の一員として、召されたことを心に覚えましょう。今日私たちはひとつとなってイザヤの祈りをささげたいと思います。
「ここにわたしがおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6:8)
(礼拝説教 9月23日)