8月のメッセ−ジ 2003年
「とこしなえにいます神は住みかなり、下には永遠の腕あり」(申33:27)
評論家の斉藤啓一氏は、精神科医のX・フランクルに関する著書「フランクルに学ぶ」(日本教文館)の中で、フランクルが不眠症の患者の治療をした興味深い話しを記しています。
フランクルは、不眠で悩む患者さんに、「眠る努力ではなく眠らない努力をしましょう。逆に何時間起きておれるか試みましょう。」と提案しました。翌朝、看護婦が様子を見に行くと、彼女はベットの中でぐっすり眠っていたそうです。
神経症タイプの不眠症の患者さんは、眠るために努力する、つまり「戦う」という特徴をもっています。一生懸命「眠るために闘おう」とするから眠れなくなってしまう。眠れないから眠らないでおこうとすれば、戦う必要が無くなり安心でき、緊張感がゆるみ、自然の眠りに入ることができるとフランクルは考えました。
眠るとは「眠り」に身を委ねることです。
けれどもこの世界に対する根本的な信頼感が欠如していると、この世界はいつも自分を脅かす危険な存在と映ってしまうので、しっかり自己防衛しなければ恐ろしくて安心できません。
そのため、夜も警戒して「見張りを続ける」ので眠れなくなるのだそうです。ところが自分は「守られている」という世界観があれば、むやみに戦う必要もなくなるので安心して眠りに自分を任せられるようになります。
フランクルは「人間は結局、恩寵の手の中におちるものである」と語っています。私はこのことばを「人は神の恵みの御手の中に、結局は真の居場所を見出す」と読み替えています。
大きな恵みの手に支えられ包まれている自分を信じ信頼できる時、無意味で浪費的な心の闘いに終止符を打つことができるのです。
シェイクスピアーは、「世の中には幸も不幸もない。ただ、考え方でどうにもなるものだ」と、言いました。問題そのものよりは、私たちの受けとめ方に問題解決の鍵が隠されているようです。
信仰とは「神」に、身を委ねることです。永遠の腕に信頼することです。