2004年 1月のメッセ−ジ
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、
これこそ神に対する私たちの確信です。」(1ヨハネ5:14-15)
祈りの本質は感謝
ある評論家が、宗派を超えて祈りは基本的には「感謝」であると言いました。しかもその感謝はいわゆるご利益に対する感謝ではなく、「今日もこうして生かされている、ありがたい」という素朴な「いのち」への感謝だと指摘しています。深い洞察だと思います。
キリスト教の祈りは簡潔に「感謝―執り成し―傾聴―応答」と四つに分類でき、常に神への讃美・感謝が先立っていることが特色です。
感謝からはじまり感謝に終わるのが聖書的な祈りといえます。ですから、祈っても応えてもらえないとつぶやくような場合には、「私の祈りは感謝からはじまり、感謝で終わっているだろうか」と自問してみることをお薦めします。祈りの本質は「感謝」なのですから。
御心にかなう祈りは成就する
御心にかなったことは、神の聖い名において必ず成就します。そこには時間の問題だけが残ります。そして、最善の時は神の御支配の中にあり、主にあっては、必ず栄光が証しされる神の「時」が来ます。ですから来るべき時に向かって、あらかじめ具体的に準備をすることを怠ってはなりません。
たとえるならば、女性が妊娠するようなものです。いつ生まれるのか誰も正確な時はわかりません。しかし生まれる事実は確定的です。十ヶ月目になって「想像妊娠」でしたということはありえません。そして妊娠したとわかれば出産準備がはじまり、母となる責任を果たそうとする意思が求められます。祈ったことが「実現する」と確信するのは、「そのために責任ある準備をする」ためです。
ある村で、旱魃に悩んだ農民が教会に集まり、雨が降るようにと祈り会を開きました。一人の男の子が傘をもって祈り会に出席しました。すると大人たちが質問しました、「坊や、どうして傘など持ってきたの。雨など降らないのに」と。これでは、何のための祈り会だったのでしょう。信じていない者たちの祈祷会には意味がありません。
御心にかなったことは成就します。問われているのはわたしたちの備えです。
私たちも、「傘」を持参する少年でありたいものです。