2004年 6月のメッセ−ジ
「主にあって労しているツルパナとツルポサによろしく。
主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく」
(ロ−マ16:12)
「主にあって非常に労苦した愛する人々」としてローマ教会の四人の名前が記されています。
彼らがどのように労苦したのか残念ながら説明がないため、その苦労をだれも知ることができません。しかし、神様が覚えてくださっていること、神様に喜んでいただけたこと、それだけで十分だったのではないでしょうか。人からの賞讃より神様に喜んでいただくことが彼らの喜びだったからです。
クリスチャンの「労苦」は、「主にある労苦」といわれています。自分の利益を守ったり、自分の幸福を追い求めるための労苦とは異なります。
「主にある」労苦とは、イエス様の御心を教会の内と外で行わせていただくご奉仕に伴う苦労を指しています。
神様へのご奉仕はやりがいがあり、「楽しい」といつも思います。でも、「楽な」ものではありませんし、楽をして神様にお仕えしたいとも思いません。
私たちの主イエス様も、自らすすんで十字架の苦難を受け入れ、カルバリの道を歩まれました。父の御心と信じてイエス様は、自らの意志で十字架を負われました。
イエスキリストの最後を映画化したメル・ギブソン監督の話題作「パッション」を最近、観ました。十字架を背負って死刑場に連行される途中、力つきてしまったイエス様にかわってクレネのシモンが十字架をむりやり背負わされ運ぶことになります。
ところが、ギブソン監督は倒れてもまた立ち上がり、自分の十字架を最後まで背負い続けて歩もうとするキリストの姿を描き続けました。
シモンが背負わされた十字架をイエス様がかわりに背負ってくださっている、逆転劇がおきている、けれどもこれがイエス様の十字架の愛なのだと私は感動しました。「十字架を負って従え」と語られたイエス様が、どうして自らの十字架を手放し、他人に負わせることができるでしょうか。重荷を負った者をイエス様は決してお見捨てにはなりません。
一人一人に異なる賜物が与えられています。そのことは託された働きが異なるばかりでなく、働きに伴う労苦も異なることを意味しています。
主にある人は労苦を人と比較しません。人に知られることを欲しません。主が喜んでくださること、それが、ただ一つの目的なのですから。