2004年 7月のメッセ−ジ   

 

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。

(詩篇16:8−9)

ダビデは詩篇16篇を、サウル王にいのちを狙われ逃亡生活を送る苦難の中でつくりました。

ダビデは、「神様を私の前に置く」と語りました。このことばを通して、神様により頼むダビデの信仰が生き生きと伝わってくる思いがします。

神様をどんなときにも「前に置く」信仰、それは神様と向き合って生きてゆく姿、先立たれる神様に信頼して歩もうとする姿を意味しています。神様を自分の「後ろに」従えて、とっとと先走りしてしまう姿に、謙虚さはみられません。

神様が「上に」祭り上げられ、形式や宗教的な装いばかりがきれいに整ったとしても、日々の生活の中 で神様を近くに感じることができないならば、きっとむなしさばかりが残ることでしょう。

反対に、私たちが日常生活に埋没してしまい、神様のものと、この世のものとの区別があいまいになっ てしまうとするならば、それは神様を自分とこの世の「下におく」ことを意味します。

神様を「横において」、肩を並べることが、相対化につながるなら、神様への畏れの念と感謝の心が失 われるかもしれません。神様の恵みに慣れてしまい、「当り前」と考えるならば、とても悲しいことで す。

神様を「前におく」信仰と、「前におかなければならない=従わなければならない」と思いこむ「〜す べき」思考とを混同させてはなりません。もし、あなたが「べき」にしばられ、しんどくなったときは「ねばならない」にとらわれている自分から、先だって歩まれる神様に視線を移してみましょう。

どんな困難な道も、先頭を歩まれるのは神様であり、行く手を切り開いてくださるのも神様です。私が 主についてゆくのではなく、主がまず歩んでくださっています。だから信頼してついてゆくだけなのです。私が歩もうとする まえに主が歩んでくださっています。だから無理しなくていいのです。

私たちが神様を前に置くことは、神様が私たちを背後にかくまってくださっていることと同じなのです。すばらしい神様の恵みが見えてきませんか。

明日のことさえわからない私たちは、いつも未知の世界への恐れや不安に悩まされます。しかし明日の すべてを知っておられる神様が、信じる者たちに先立って歩み、道を備えてくださっていると知ること ができたならならば、どんなに心強いことでしょう。

それゆえに、私たちもまた、ダビデとともに「私の心は喜び楽しむ」と感謝することができるのです。   


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