2004年 9月のメッセ−ジ
十字架は初めの愛です
「十字架のことばは、滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」
(1コリント1:18)
夏休みを利用して、家族で信州へバス旅行をしました。帰り道、岐阜の飛騨高山地方の田舎を通り過ぎた時、一緒に行った親戚の子が「ほらあそこに教会が見える」と窓の外を指差しました。 古い民家と田んぼが並ぶ中に、白い壁、青い屋根、そして十字架が高く掲げられたしっかりした造りの教会の姿が目に飛び込んできました。
このような農村部にもイエス様を信じるクリスチャンたちが住み、教会堂を建て上げ主にささげ、屋根の上に十字架を高く掲げて、地域の人々にイエス様の救いを証ししているのだなと思うと胸が熱くなる思いがしました。
「クリスチャンがキリストを証しすると同様に教会堂もキリストを証しする」とは昔からよく言われることばです。すっかり一観光客の気分になっていたこともあり、十字架が青い屋根にすっと立っている美しい姿に私は感動すら覚えました。
高山の農村に建てられたあの教会にどのような牧師先生と信徒さんがおられ、伝道牧会に励んでおられるのかわかりませんが、その働きが祝福され、地域に住む人々が十字架を仰いでキリストの救いを知り、神の豊かな愛を受け取られますようにと車中から祈らせていただきました。
十四年前、私たちは堀池の地に小さいながら美しい白い壁の教会堂を献堂しました。屋根に取り付けた大きな十字架が、夜には明るく輝きました。
しかしその後、周囲に三階建ての家が建ち並び、十字架が隠れて見えなくなってしまいました。とても残念な気がしています。その教会堂も手狭となり別の地域に施設を借りて礼拝をささげています。
教会は父の御心に根ざし、キリストの十字架の愛に根ざし、教会が置かれた地域とそこに住む人々の霊的な必要に根ざしながら、礼拝と宣教の奉仕に励みます。教会堂はその働きを支える要ともなるホームグラウンドであると思います。
モーセの時代には、天幕での礼拝を導かれ、ソロモンの時代には神殿での礼拝を神様は導かれました。使徒たちの時代には、信徒の家々での礼拝を導かれました。これから神様はどのような礼拝へと私たちをお導きくださるのでしょうか。
「ただ御心のままに」、感謝のこころを携えて、主が導かれるまま、お従いしてゆきたく願っています。