2005年 9月のメッセ−ジ
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、
へりくだって互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」
(ピリピ2:3)
世界には約六千の異なる言語が存在するそうです。中国語を約十億人、英語を約五億人の人々が母国語として話しています。多様な言語の違いと人間の傲慢さが実は深く関連していることを旧約聖書の「バベルの塔」の物語が示しています。
メソポタミア地方で「窯焼きレンガ製造」技術が開発され、石材に代る建築材料として用いられ、巨大な建造物の建設が可能となりました。そこで人々は天にまで届くような高い塔を建て自らの力を誇り自らの名を上げようとしました。
創造主なる神は人間のこのようなおごり高ぶりをご覧になり、彼らの言葉を混乱させました。その結果、互いに意思の疎通が図れなくなり、バベルの塔の建築は中断し企ては失敗に帰しました。
最先端技術を誇る科学万能主義や無神論の中で、かえってことばによるコミュニケーションを失い、孤独と孤立と疎外感に陥り、絆を失いばらばらになってゆく現代人の断面を見る思いがいたします。外国語を話すならいざしらず、同じ日本語を話しながら言葉が相手に届かないもどかしさや空しさを私たちはしばしば経験します。ことばが届かないことと「こころ」が通じないこととは同じです。
親子の間でも、夫婦の間でも、友達同士の間でも、謙遜さを忘れ、いつしか傲慢になってしまうとき、ことばがすれ違い、心が通じなくなり、協力してともに働くことができなくなってしまいます。ことばが届かない時には、自らの心の中の「バベルの塔」の存在に気づき、謙遜になって相手の言葉を聴くことが必要ではないでしょうか。百人いれば百通りの多様な考えがありますから、違いを受け入れることで豊かなコミュニケーションを創ることが可能となります。
私たちが神様の栄光のために一つとなって歩むことが必要な場合には、私たちは自分のことばではなく、ただ一人の方のことば、神の御子イエスキリストのことばを語り合いたいと願います。御子の思いは父なる神の思いと一つであり、真のコミュニケーションがそこにはあるからです。
謙虚になってキリストのことばを聴いてゆく「祈り」の中で、クリスチャンの一致は築かれ、天からの声を聴くことができるのです。