【福音宣教】 最後の預言者バプテスマのヨハネの誕生

「イスラエルの多くの子らを彼らの神である主に立ち帰らせます」(ルカ1:16)」

ルカはキリストの誕生に先立って、最後の預言者と呼ばれる「バプテスマのヨハネ」の誕生から書き始めました。皆さんもご自分の誕生にかかわる隠れた物語、秘話があるのではないでしょうか。さすがに私は桃から生まれたとか竹の中から生まれたという方はおられないはずですが、私は病院に行く途中の救急車の中で生まれた、タクシーの中で生まれた、飛行機の中で生まれたという話は聞いたことがあります。私の両親は親戚7人だけの結婚式をあげ、尾頭付きに魚は鯛の代わりに秋刀魚だったとか、母は近鉄電車の車内販売の売り子だったとか、隣のおばさんの母乳で育ったとか、父が残した日記で数々のエピソードを知りました.。

1. 見えざる神の御手

ヘロデ大王の時代(BC40BC4)に、エルサレムの神殿に仕える祭司一族の中アビアの組に所属するザカリアという名の祭司がいました。当時約2万人の祭司たちが1組およそ1000人で24組に分かれて、1年に2度、1週間づつ神殿で奉仕をしたと言われています。妻エリサベツはモーセの兄で最初の祭司となったアロンの血筋をひく名門中の名門の出身でした。彼らは幼いころから祭司一族としての教育を両親から受けていましたから晩年になるまで「神の御前に正しく」(5)生きた夫婦でした。理想的な家庭でしたが、ただ彼らには子供がありませんでした。順調に行ってるように見えても、どの家庭にも隠れた悲しみや痛みがあるものです。光と影が交差しています。

ザカリアが所属するアビア組が順番でエルサレム神殿で御用をする機会が来たので、組に所属している祭司たちがくじ引きをすると、ザカリアが神殿の聖所の中で「香をたく」(9)というたいへん名誉な役にあたりました。このような役に一度もあたることなく祭司として引退していく者たちも多くいました。ザカリアが装いを整え、緊張しながら香をたくために聖所に入ったとき、香をたく純金で造られた香の祭壇の右に主の使いが現れたのです。そして不妊の妻であったエリサベツから男子が生まれるという、信じがたい御告げを聞くことになったのでした。

くじを引いたらたまたま名誉な務めにあたったとザアカイも妻のエリザベツも考えたかもしれません。同僚の祭司たちは「君はラッキ―-だな」と喜んでくれたかもしれません。しかし、もうすでに「見えざる神の御手」がザカリアの上に伸ばされていたのです。神の御心の中で、神のご計画の中で「なるべくしてなった」のでした。このような神の見えざる御手のことを「摂理」と呼びます。神を信じる者たちは「神の見えざる御手」に導かれて生きています。それは出会うべき人に出会う見えざる糸と呼ぶこともできます。なるべくしてなった天職ともいえる職業に就いたとも言えます。あるいは、多くの人々が経験することですが、まさかと思うような試練や困難が、信仰に導かれるための救いの機会と変わる「人生のターニングポイント」であったと振り返ることができるかもしれません。ザカリアにとって香をたく当番に当たったことは、イスラエルの最後の預言者となるバプテスマのヨハネの誕生を神から伝えられるという、まさに定めれらた「神の時」となったのです。

ですから、私たちクリスチャンは神の御手の中で日々、歩んでいることを覚えましょう。もちろん私たちクリスチャンは運命論者ではありません、神のロボットでもありません。自由意志と祈りをもって「選択と決断」の人生を主体的に歩み続けています。それでもなお、神の子たちの人生は神の御手の中で神の目的とご計画に従って導かれています。信じましょう。

確かにまさかと思うようなこと、最悪と思うようなこと、わが人生最大のピンチと不安に包まれ、この先どうなるのか、何が起こるのか、恐れを超えて「恐怖さえ覚える」(12)ような苦難や試練に遭遇することがあるかもしれませんが、私たちもザカリアのように「こわがることはない」(13)という神の声を聞かせていただくことができるのです。神の御手の中を導かれているからです。

2. 預言者の誕生

御使いがザカリアに告げたメッセージの内容は「妻が男子を生む。その子をヨハネと名付けなさい。彼は強い酒も飲まず、母の胎内にある時から聖霊に満たされ、神に聖別されたナジル人(民6章)として育ち、やがて「イスラエルの多くの子らを神である主に立ち帰らせる」16)預言者となるであろう」というものでした。最後の預言者マラキ以来、イスラエルに預言者は登場することなく  4百年の月日が過ぎ去っていましたから、ザカリアにとっては息子が生まれること、さらにその子が預言者として立てられることは2重の驚きの知らせでした。

日本では預言者というと、なにか霊能者かいかがわしい者、あるいは予言者ノストラダムスを思い浮かべる人が多いかもしれません。御使いは預言の重要な働きをザカリヤに伝えています。

「神である主に立ち帰らす」(16)、「父たちの心を子供たちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、整えられた民を主のために用意する」人物です。やがて来るべきメシア(救い主キリスト)のために「前ぶれ」(17)となり、人々の神への信仰のこころを整える役割を果たします。

30年後にヨハネは預言者として現れ(ルカ3:8-14)、群衆に向かって「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と大声で叫び(11)、収税人たちにも(12)、兵士たちにも(14)、神に立ち帰ることを力強く語り、「私は水でバプテスマを授けるが、さらに力ある方が来られる。私などはその方の靴の紐を解く値打ちさえもない。その方はあなたがたに聖霊と火とのバプテスマを授ける」(16)と、来るべきメシア(キリスト)をはっきりと指し示す「証し人」でもあったのでした。

現代社会にも預言者は登場するのでしょうか。バプテスマのヨハネは最後の預言者と呼ばれています。預言者は「神のことばを預かり、神のみ旨をそのまま群衆や王に恐れることなくはばかることなくおもねることなく忖度など一切せずに、語り伝え、宣言する」職務を果たすために神によって遣わされました。しかしついに、神の御子が救い主としてこの世界に来られ、あますところなく「父の御心」を群衆に語り伝え、彼の教えはやがて使徒たちと教会によって全世界の人々に語り伝えられるようになりました。したがってもはや御子以外の預言者を再び立てる必要がなくなりました。

「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1:18)

「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」(へブル1:1-2)

すべてはキリストに聞き、キリストの言葉が記された聖書に、キリストの御霊を通して聞けば良いのです。それゆえ現代に預言者はもはや必要ではありません。そのかわり、人々をキリストのもとへ導く人々、「証し人」たちが必要とされています。イエス様は「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。」(ルカ10:2)と弟子たちに命じました。働き人とは、キリストを示し、キリストのもとへ人々を導く「証し人」たちを指します。彼らはキリストとともに生きる恵みを、生活を通して人々に伝えます。キリストの愛について語るのでなく、キリストの愛に生きている自らを指し示すのです。

私の友人である女性のA牧師は中学生の息子さんが仲間たちと警察に補導された時、真っ先に警察官の前で土下座して謝ったそうです。他の母親が息子を叱りつけたりどなったりしていたにもかかわらず・・。彼の仲間たちが「お前の母親は本当におふくろだな」としみじみと語ったそうです。この姿は「弟子たちの足」を洗われたイエス様の姿にも通じるのではないでしょうか。息子さんもお母さんの信仰をほんものだなと感じたことでしょう。イエス様の姿を母の中に見たのではないでしょうか。預言者はもはや存在しません。そのかわりに、イエス様ご自身を現す「現代の証し人」が多く身近なところで働くように祈りなさいと、今も、イエス様は私たちに呼びかけておられるのです。  


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