【福音宣教】 召天者記念礼拝 天にある永遠の居場所

今年は召天者記念礼拝を開くことができるか心配していましたが、今日、神様の前に執り行うことができご遺族の方々と共に神の御国を仰ぎつつ礼拝を捧げることができてうれしく思っています。

「あなたがたはこころを騒がせてはなりません、神を信じ、また私を信じてなさい」(ヨハネ14:1)

1 父の家には住まいが多くある

この個所は2000年前、イエスキリストが十字架の死を前にして、弟子たちと共に過ごした最後の夜に語ったことばです。言いしれない不安を覚える弟子たちに「なにも心を騒がす必要はない。安心しなさい。父の家には住まいが多くあり、私が場所を用意しに行くのだから」とキリストは語りました。

人は死んだらいったいどこへ行くのだろうか、日本人である私たちはこころを騒がせ不安を覚えます。 極楽か地獄か? 墓場の土の下か草葉の陰か、仏壇の中の小さな位牌の中か、あの世とはどこか、三途の川の向こう岸にちゃんと行けるのか、釈迦は死後の世界については何も語っておられませんから(これを無記といいます)、わかりません。わからないことを考えてもわからないので、思考停止にしているといってもいいかと思います。

しかし、キリストは「父の家には住まいがたくさんある」と宣言されました。古い英語聖書では「Many Manshions」とされています。限られた少数の者たちだけの狭い住まいではありません。西からも東からも世界中の国々から大人も子供たちも含めた「神の国」の「神の民」が招き集められる広い住まいを意味します。しかも、イエス様が一人一人に「場所を用意する」と約束してくださっています。大広間に押し込まれて雑魚寝するのではなく「一人一人」に場所が用意されるのです。永遠の住まいと居場所が用意されるのです。

聖書は私たちは「地上では旅人である」(へブル1113)と人生の本質を教えています。

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」(へブル1113

旅人たちには、定住の場所が本来存在しないのです。すべてが「仮の宿」であり、本来の「居場所」ではありません。そんな私たちが、ついに「永遠の住まい」を得ることができるのは、地上ではなく神の国においてです。

「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」(第2コリント51

地上に居場所を求めても安らぎにも満足にもなりません。富の中にも、快楽の中にも、仕事の中にも、家庭の中にも、人間関係の中にも残念ながら本当の居場所を見出せない。あなたの本当の居場所は、住むべき住まいは天の父なる神の家にあるのです。

2.  わたしのいる所に、あなたがたをもおらせる

救い主イエスキリストは、「用意ができたなら、また来て、あなた方を私のもとに迎える」と約束されました。「また、来て」という言葉には2重の意味があります。十字架で死なれ復活されて天に帰られたキリストがいつの日か再び来られて「キリストの御国」を完成される「再臨」と、個人的にキリストが呼んでくださる「お迎え」を指しています。

キリストを信じる者にとって死の時は、キリストが天の住まいの用意を整え終えて、迎えに来てくださる時ともいえます。クリスチャンは「いのちが尽きて死ぬ」のではありません。キリストが父なる神の国で用意を整えて準備ができたので、迎えに来てくださる時なのです。ですから勝手に天国に行こうとしても「まだだ」と必ず追い返されます。

イエス様は用意がまだ整わない間は、地上のいのちを支えてくださっています。それは地上でまだなすべき大切なことが残されているからです。私たちが地上でなすべき最後の奉仕は「和解」という愛の奉仕です。人は憎まれたまま、恨まれたままでは死ねません。いろいろあったけれど、「ありがとう」と告げ、「ありがとう」と言ってもらって安らかに地上の生涯を閉じることができるのです。ミシェル・モンテニューは「人生の価値は時間の長さではなく、その使い方で決まる」と言いました。どれほど生きたかではなく、どのように生きたかが重要であり、最後に愛の奉仕-和解-に生きることができたかによって幸福が決まるといっても過言ではありません。

木曜日に98歳になる兄弟の葬儀を行いました。天に召される4日前に病床で洗礼を受けられました。10月8日に骨折の手術のため病院に入院されましたが肺炎を患い手術を断念せざるをえませんでした。けれどもおそよ1か月の間、毎日のように家族とも面会ができ、思い出を語りあうことができました。お父さんの古びた愛用の財布からは大事そうにきれいな紙に包んだ40歳ごろの奥様さんの写真が出てきて、家族は衝撃を受けたそうです。愛情の表現がわからなかったのでしょうか。小学校を出て「丁稚奉公」に出された時代です。がむしゃらに働くしかなかった人生だったのでしょう。家族を愛することが下手なお方だったようです。

クリスチャンの娘さんがお姉さんに促され勇気がいりましたが「イエス様信じて天国へ行こう」と伝道し、信仰の告白へと導かれました。奇跡としか言いようがありませんでしたが、イエス様を受け入れました。折り合いの良くなかったご長男さんは出棺に際し、「おやじありがとう!」と人目をはばからず号泣されました。これを愛の奉仕・和解といわずなんというのでしょうか。逝く側も送る側もともに「神の愛に包まれ」和解に導かれるのです。それがイエス様がなされる地上における「準備の時」なのです。

神の御子イエス様、御国の王であるイエス様は、こうして天においても地においても永遠の愛において準備を整えてくださいます。キリスト教の葬儀はいつも感動的な愛のドラマの完成の時だと私は誰よりも感激しながら司式をさせていただいています。

この地上では多くの嘆きがあり、悲しみがあり、痛みがあり、傷つくことが多々あります。それでも私たちはこの地上では旅人として歩き続けてゆかねばなりません。しかし、「あなたがたはこころを騒がせてはなりません、神を信じ、また私を信じてなさい」のことばに励まされ、支えられて地上の日々を歩みましょう。神が良しとされるとき、準備が整った時に、私たちクリスチャンは名を呼ばれて、天に移されるのです。死ぬのではなくキリストとともに生きるのです。

「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」


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