【福音宣教】 マリアの讃歌 わがたましいは主を崇めます

2011/11/15 聖書箇所 ルカ1:39-56 

先週の召天者記念礼拝は感謝でした。Sさんは病床洗礼を受け、神の子として4日間の地上の生活を過ごされましたが、地上に残って生きるご家族の多くのプレゼントを与えてくださり、その4日間はご家族にとって30数年の生涯よりも思い出に残るあたたかな質の高い日々であったことと思います。さらに今朝はIさんの転入会式を神様の前に執り行わせていただきました。姉妹は宇治バプテスト教会の新しい家族としての日々を歩みだされました。これからの歩みが祝福されますようにお祈り申し上げます。

今日の箇所はマリアの讃歌と呼ばれています。

1. わがたましいは主をあがめ、救い主なる神を喜びたたえます(46

崇めますという動詞で始まる美しいマリアの賛美です。「崇める」という言葉は「大きくする」(メガリュノー)という意味のことばです。ラテン語では「マグニフィカート」と呼ばれます。神を崇めるとは、神を神として大きなものとすることです。神大きくするとは、あなはが小さくなることです。

神様の大きさはあなたの中で一体どれほどでしょうか? 神様が小さくありませんか。あなたの中の神様はミミチュアサイズになっていませんか。自分のほうが神様より大きくなってしまっていませんか、それは傲慢の始まりです。他の誰かが神様より大きくなっていませんか。それは劣等感の始まりです。お金や名誉や仕事が神様より大きくなっていませんか。それは不幸せの始まりです。どんな喜びにまさって「神ご自身を喜び」とするとき、それは幸福の始まりとなります。1640年代に英国で作成されたウェストミンスタ―信仰問答集の第一条において「人生の目的は何ですか」と問われ、その答えに「神をほめたたえ永遠に神を喜ぶ」ことと記されています。生きる目的は「何になる」か、「何を行う」かにあるのではありません。置かれた場所がどこに導かれようと、「どう生きるか」、「どう神をあがめるか」がすべてなのです。

幼い時からそのように両親によって育てられる子供たちは幸福といえるのではないでしょうか。

2. 卑しいはしために目をとめてくださったからです(48

ルカ福音書は「女性の福音書」とも呼ばれますが、1章で預言者バプテスマのヨハネの母となったエリサベツとキリストの母となったマリアとの出会いを記しています。二人の母の出会いが記されています。エリサベツは都エルサレムのきらびやかな神殿で仕える祭司ザカリアの妻で、アロン家の血筋の名門の生まれ、一方マリアは辺ぴな北部ガリラヤ地方のナザレの寒村に住む大工ヨハネの許嫁で名もなき平凡な乙女。しかしこの二人に神は「目をとめられ」、御使いガブリエルを遣わしました。ナザレからユダまでは約100km、歩いて1週間はかかる距離。しかし、見えざる「神の御手」に導かれてその距離を超えて二人は出会い、神の恵みをほめたたえたのでした。ここに信仰による交わりの喜びがあります。マリアはエリサベツの出産まで立ち会って、ナザレに帰ったものと推測されています。

マリアの歌には「あわれみ」という言葉が3度使われています。神の目にとるに足りない小さなものと自覚しているからこそ、神の恵みや祝福を「あわれみ」として感謝して受け取ることができるのです。神の前にへりくだるものにとってすべての恵みは「恩寵」となり、神のあわれみのゆえに受けたと「感謝」に変わるのです。

私を覚えてください。この祈りに耳を傾けてください。私は神の前には「土の器にすぎません」しかも「ひびだらけの罪深い器」に過ぎません。この砕かれた心のゆえに、神に向かって呼びかけ、助けを求め、祈り求めることができるのです。

「神にあわれんでもらうほど」落ちぶれてはいない!などと傲慢にふるまっていては神に祈ることも、神に近づくこともできません。

神は「高ぶる者を散らし、権力ある者を王座から引きずり下ろし、卑しいものを引き上げ、飢えている者を良きもので飽きたらせてくださる」(51-53)お方なのですから。

イスラエルの偉大な王であったダビデ王も神の憐れみを深く経験した一人でした。「主よ、あなたはあわれみ深い神、怒ること遅く、恵みと真実に富んでおられる」(詩篇8615

おぼり高ぶって肉の力に頼ったときは失敗し、へりくだって神のあわれみを求めた時は祝福され実を結ぶことができたのでした。

2. 力ある方が大きなことをしてくださいました(49  主は御腕をもって力強いわざをなし(51)

エリサベツとマリアには共通する「信仰」がありました。エリサベツは名門の家柄でしたが不妊の女と言われ、肩身の狭い思いをしていました。男の子が生まれ大いなる預言者となるとの御告げがザカリアに告げられたとき、常識的にはあり得ない、不可能なことと思われましたが、信じました。ですからやがて子が生まれ8日目の割礼と命名式の時に、当時の慣習を破ってその子の名は御使いが告げた通り「ヨハネ」とつけなければならにと親族に言い切りました。一方のマリアも聖霊によって神の御子を宿すと御使いに告げられた時に、「私は主のはしためです。あなたのおことば通りこの身になりますように」(138)と信じました。エリサベツはマリアに出会ったとき、「主によって語られたことは必ず実現すると信じ切った人はなんと幸いでしょう」(145)と、信仰による神の恵みを分かち合うことができました。

彼女たちには「主にとって不可能なことはひとつもない」(37)との信仰に立っていました。

それは言葉を変えれば「主を崇める」すなわち「主を大きなものとする」ことにほかなりません。天地を創造された大いなる神様に不可能なことはない。この素朴な信仰が世界の新しい歴史をつくったのです。マリアは「わがたましいよ」と賛美しています。知識や感情は時には神の存在や神のみわざを否定するかもしれません。しかし、魂すなわち「私の存在」のすべてをもって、神を大きなものとすることこそが信仰といえます

旧約聖書においては、神の力ある御業や奇跡を「不思議」とも表現しました。主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。」(士師記13:18)

「ただひとり、大いなる不思議を行われる方に。その恵みはとこしえまで」(詩篇136:4)

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる」(イザヤ9:6)

父なる神も、御子キリストも信じる者たちの生涯に、奇跡というよりも「不思議を行う」あわれみに富むお方です。不思議には神の深い御旨が秘められています。単なる奇跡よりも味わい深いものです。

あなたの生涯が「神の不思議」で導かれますように。


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