20201213 天使たちのクリスマス ルカ2:12-15
「いと高き所に栄光が神にあるように。地の上に平和がみこころにかなう人々にあるように」(2:14-15)
いよいよ次週は2020年度のクリスマス礼拝です。
1 天使の軍勢
軍勢とは、おびただしい数の武装した天使たちの軍団(ストラティアスARAMY)という意味です。旧約聖書では預言者エリシャの暗殺をもくろんだアラム王が軍団を送ってエリシャの居場所を取り囲んだ時、エリシャは従者の目を開いて、「エリシャを守るおびただしい数の火の馬と戦車」を見せました(Ⅱ列王6:17)。槍や剣や弓矢で敵を切り倒し、打倒して勝利と平和をもたらす役割を果たす天使の大軍隊が「天に栄光、地に平和」と賛美する光景は不思議といえば不思議です。羽が生えた美しい天使たちのきよらかな歌声が夜空に響くという想像とはずいぶん違います。
結局は力には力で、武力で平和をもたらすのかと思ってしまい、私は少々違和感を覚えますが、神の御子がついに誕生した夜、天使の軍勢(黙5:11)が戦いをやめて、賛美をささげた!これには深い意味があるように思います。
神の御子が救い主として託された使命を全うするために多くの悪と闇の勢力と霊的な戦いを経なければなりません。そのために御使いの軍勢が、幼い御子と無力な真理とヨセフを守り支えるためであるともいえます。あるいこうも推測できます。救い主キリストのみが地に真の平和をもたらす「平和の君」(イザヤ9:6、エペソ2:13)であり、その待ち望んだキリストがついに世に来られた。神による永遠の恵みのご支配がいよいよ始まった。幾千万のみ使いたちによる勝利よりも遥かにまさる「キリストの平和」がもたらされた。キリストの平和が完成するのはまだ先であり、キリストが再臨される日を待たなければなりません。天の軍勢も戦いをやめる日を迎える。そしてその日、すべての戦いが地の上から除かれます。こうして完全な平和がキリストが再びおいでになる日に成就します。御使いの大合唱はその先取りともいえます。
平和の君であるキリストの誕生という「歴史的事実」はそのまま、「再びキリストがおいでになる」再臨という未来の歴史的事実の「しるし」であり、真の平和はその時に完成されます。その日には天でも地でも賛美が響き渡ることでしょう。
「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」(イザヤ2:4、ゼカリア9:9-10)
この言葉は第2次世界大戦のあとに国際平和を願って創設されたニューヨークにある「国際連合」の広場の壁(通称イザヤウォール)に刻まれており、平和の完成を指すことばです。天の軍勢の勇ましい行軍の足音もやみ、麗しい賛美に代わる真の平和の日の「始まり」がすでに来たのです。
2. 天の軍勢の賛美
原文には動詞がなく、栄光、いと高きところに、神に、そして、地の上に、平和、人々のうちに、喜びのという言葉が並んでいます。英語欽定訳は天と地と人の3つの句に分けて「神に栄光、地に平和、人には善意」と訳しました。1700年代にチャールズ・ウェスレーが作った新聖歌79番「天には栄え」のオリジナル歌詞は「神には栄え、 地には穏やか(平和)、人には恵みあれと歌える・・・」となっているそうです。新改訳では「天では、いと高きところにおられる神に、栄光があるように。地の上に、平和が神に喜ばれる人々(御心にかなう人々)に、あるように」と訳されています。
「神に栄光、地に平和」と2つの句に分けられ、さらに「地に平和をという漠然とした理想よりも、神に喜ばれる人々の中から平和があるように」という祈りの内容になっています。地上に平和が訪れるのは、キリストの再臨の日まではその可能性が非常に乏しけれど、神に喜ばれる人々に中から平和が生まれ広がることを天使たちは期待しているのです。
2度にわたって世界中を巻き込んだ世界大戦は75年間起きていませんが、民族紛争、部族対立、宗教対立、テロ事件は世界中で頻発し、一向に止む気配はありません。「地には戦争、人に心には悪意あれ」(内村鑑三)の有様を呈しています。
「終末時計」をご存じでしょうか。1947年、核戦争の危険性を警告する目的で、マンハッタン計画で最初の原爆開発に参加した米科学者たちが創設したのが、「世界終末時計」です。米科学誌「原子力科学者会報(BAS)」は2020年1月、地球滅亡までの時間を示す「終末時計」の針が昨年より20秒進んで残り100秒となり、1947年の開始以降、最も「終末」に近づいたと発表しました。暗黒の闇は深まっているのです。
イエス様は「平和を創りだす人々は幸いです」と祝福の言葉を語りました。イエスキリストを信じる人々のこころの中からのみ平和が生まれ広がることを覚えましょう。
3. 神の御心にかなう人々とは
では「神の御心にかなう人々」とはどのような人々のことでしょう。信仰に満ちた聖人君子と呼ばれるような立派な一流のクリスチャンたちを指すのでしょうか。御心にかなうと訳されたことばは「神に喜ばれる人々」とも訳されます。天の父なる神様に最も愛され、最も喜ばれたのは神の御子イエスキリストおひとりでした。イエス様が洗礼を受けられたとき「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」(マタイ3:17)と父なる神様は宣言されました。ですから、神に喜ばれる人々とは、神の御子イエスキリストを信じ、心に迎え入れたすべての人々をさします。礼拝に出席しているすべてのクリスチャンこそが「神に喜ばれる、御心にかなった人々」なのです。そして平和は彼らのこころの中に火がともされ、広がり続けて行くことが期待されています。地には平和が見こころに叶う人々中から満ち溢れていくのです。神の子たちから始まるのです。
「平和」と訳されたことば(エイレーネ)は平安、安らぎ、救いとも訳される豊かさをもった言葉です。旧約聖書ではシャロームと呼ばれています。平和はキリストを信じ、神に喜ばれる人々の心の中に神からの贈り物として与えられます。イエス様は弟子たちに「私は私の平安をあなたがたに与えます」(ヨハネ14:27)と、約束されました。
クリスマスそれは御子を信じる者たちに神の平和とキリストの平安が与えられた日なのです。戦争だけではなく、日常生活の中での様々な争い、対立、嫌悪、憎悪、分裂、仲たがい、断絶、これらが癒され、解放され、和解と平安の中に神の子たちが歩み始める日であると、言えるではないでしょうか。
フランスのカトリック教会のカンドウ神父は若き日、第一次世界大戦に従軍し、敵対するドイツ軍と川をはさんで激闘を繰り広げる最前線で戦っていたどそうです。銃撃が止んだ時、一人の兵士が「今日はクリスマスイブじゃないか。故郷では妻や子供たちや両親たちが教会で讃美歌を歌いながら祈っているだろうな」と思い起こし、静かにクリスマスの賛美を歌ったそうです。賛美の輪はフランス軍の陣地に広がっていきました。すると、対岸のドイツ軍陣地からも同じ曲がドイツ語で歌う声が響いてきました。戦場の夜空に両軍の兵士たちの歌声が響き渡りました。その夜はいつしか銃撃は止み、静かなクリスマスの夜となったそうです。
罪深い愚かな人間はいたるところで争い、自分こそは正しいと主張し、相手を傷つけ,非難し、支配しようとします。いつまで愚かで無益な争いは続くのでしょう。それは家庭の中でも、親子の間でも、夫婦の間でも、兄弟同士の間でも、近隣の人々との間でも、職場でも止むことがありません。罪の赦しがないところに平安は存在しません。神との和解がないところに平和は存在しません。キリストの十字架は神と私たちとの深い断絶に橋を架け渡し、和解をもたらしました。天の栄光と地の平和とが一つになったのです。
来週はいよいよ2020年度のクリスマス礼拝を迎えます。コロナ禍の中で、今まではと違うクリスマスを迎えることになります。本来のクリスマスを迎える恵みに導かれた、本来のクリスマスを教会が回復したといってもいいかもしれません。そして、私たちは地において、身近な人との間において、和解をし、平安を得、平和を生み出していくことを決意しましょう。以下のアッジシのフランチェスコの祈りを私の祈りとさせていあt抱きましょう。
「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。憎しみのある所に、愛を置かせてください。侮辱のある所に、許しを置かせてください・・・。疑いのある所に、信頼を置かせてください。
絶望のある所に、希望を置かせてください。闇のある所に、あなたの光を置かせてください」 (アッシジのフランチェスコの平和の祈り)