「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名は「インマヌエルと呼ばれる」(訳すと、神は私たちとともにおられるという意味である」 (マタイ1:22)
みなさん、クリスマスおめでとうございます。2020年のクリスマス礼拝に集い、感謝と賛美をささげることができる喜びに今、私たちは包まれています。握手の代わりに今年は拍手をして挨拶をしましょう。大阪ではコロナの感染拡大のために。多くの教会は再び礼拝を自粛し、オンライン礼拝に1月10日まで切り替えているそうです。コロナ感染拡大の収束を心を込めて祈ってまいりましょう。
1. 救い主イエス
マリアの婚約者であったヨセフにも御使いが現れ、「マリアは男の子を生むが、その名をイエスと名付けなさい」と命じました。さらに「その名はインマヌエル」と呼ばれると告げました。神の御子に対する二つの名には、救い主の果たす2つの大きな役割がこめられています。
イエスという名前は「主は救い」という意味で、当時は一般的な名前でした。旧約聖書ではモーセの後継者であったヨシュアという名前と同じです。その働きに関しては「ご自分の民を罪から救う救い主」(21)と、なられると御使いは告げています。
病気から救うには専門的な医療技術や薬、人々を貧しさから救うには豊かな富、外国の侵略から救うには軍事力や外交力が必要です。無知から救うには学問・教育が必要です。しかし人々を罪から救うには何が必要でしょうか。
その前に、そもそも罪とは何を指しているのでしょうか。個人的なもろもろの犯罪や道徳的な過ちも含みますが、聖書が教える根本的な罪とは、神に対する背き、不従順、神などはいないと神を締め出してしまう人間の傲慢さを指しています。原語では「的外れ」という意味になります。ですから、救いとは「的を正しく射る」こと。つまり神様との正しい関係に立ち戻ること、失われた神様との交わりを回復することを意味します。この理解をもたないと、教会に来て「あなたは罪びとです」といきなり言われて、「失礼な!私を犯罪者呼ばわりして」「うちの子どもをそんな風に育ててません」と怒って帰る人も出てきてしまいます。
それでは、「罪からの救い」のためには何が必要でしょうか。罪を赦す「聖さと権威」が必要です。さらに「確かな証拠」が必要です。罪深い者に他の人の罪を赦す資格はありません。忘年会を避けましょうと呼びかけながら、自分が忘年会に出て飲食しているようではモデルになりません。罪を赦す権威は、罪のない「聖い者のみ」が持つことができるのです。
その意味で、罪の赦しを宣言できるのは「聖い神の御子イエス」一人だけです。さらに罪の赦しが成就した確かな・証拠が必要ですが、それは「罪のない神の御子が十字架で身代わりとなって死なれた」という歴史的な事実があります。キリスト教は十字架の事実に基づいています。浄土宗では「10万億土のかなたにある西方極楽浄土にて、阿弥陀様が世の罪人を救うという尊い誓いを立ててくださった」と教えます。でもそのありがたい誓いを証拠立てる事実がないのです。神の御子は人となってこの世に来られ、33年の聖い生涯を歩み、十字架に自ら進んでかかり、身代わりとなって刑罰を受け、すべての罪、咎、汚れを償ない、「赦し」を宣言し、成就してくださったのでした。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(第1ペテロ2:22-24)
多くの人々が自分は罪ある存在である、罪びとの一人であるとは自覚できていません。しかしながら、自分の罪深さ、愚かさ、欲深さ、醜さ、エゴイズムさに、人知れず良心の呵責やうずきを抱えて苦しんでいる人もいます。神様は罪を憎まれますが、罪びとを愛しておられますから、まずそのような自覚と傷みを抱えている人を「キリストのもとに来て「赦しと救い」を得なさいと招いてくださっているのです。
マタイ11:28「疲れた者、重荷を負って苦労している者は私のもとに来なさい」
マルコ2:17 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
2. その救い主の名はインマヌエル
さて神の御子・救い主イエス様のもう一つの隠れた名前があります。その名は「イン(共に)マヌエル(神がともに)」です。十字架で死なれたイエス様は、墓の中、土の中で静かに眠っておられるのではなく、3日後に復活されました。キリストの十字架の罪の赦しを信じた者たちが、永遠のいのちを受けて神の国で生きるという究極の希望を与えるためでした。イエスキリストが復活された目的は、キリストを信じる者たちの地上での生活を共に歩んで、導き続けるためです。キリストは死んだ神ではなく、活ける神です。死者のための神ではなく、生きるものとともに歩まれる神です。
多くの人々が「神はおられる」と受け入れています。しかし、悩みは「いつも神がいてくださるとは限らない」と疑わざるを得ないような試練が多く人生に多くあることです。「私が苦しかったとき、神様が私から離れてしまっておられた」「私が本当に必要なとき、神様はどこへ行かれてしまっただろう」と失意の中に落ち込んでしまうときがしばしばあります。譬えるならば「トンネルの出口は確かにあるけれど、トンネルが思いのほか長く続くな」というつらさを抱きかかえながら歩く日々があるのです。でも、私たちは信じます。神を否定する人のトンネルには出口がないけれど、神を信じる私たちには長く暗いトンネルでも、出口があり、そこにはきっと良きことが待っている、耐えられない試練はない。私たちがキリストと共に歩むのではなく、キリストが私たちとともに歩んでくださるのだと。
一方、少数の人々だけが「神などいない」と強がりを言います。でも本心は「こんな時だけは神様に居てほしい」と願っています。完全に救い主、助け主である神を否定してしまえば、自分の生きる世界が完全に暗闇に閉ざされてしまうからです。トンネルの先には出口がなくふさがってしまっています。彼らの本心は、「安易に神様にすがったり頼ったりせず、頑張れるだけ自分の力でがんばりますが、どうしても無理、限界とお手上げになったときは、見捨てず手を指し伸ばしてください」と心の中では願っています。神様に最後まで「手を伸ばさず」に、自分で最後まで頑張れた人も息を引き取る際には「神様、ここまで私の人生を守ってくださって感謝します」と、こころある人であるならば、手を合わせて祈るのではないでしょうか。そうであるなら早くから手を合わせて、神に祈ることを学ぶことがベストの人生選択ではないでしょうか。神を信じることを先延ばしにする理由はありません。「今日、あなたのために救い主がお生まれになった」のですから。
マタイの福音書は、ベツレヘムの家畜小屋で誕生した神の御子の名が「インマヌエル」(23)すなわち「神がわたしたちと共におられる」と1章で記しています。そして最後の28章は、よみがえられたキリストのこの言葉で結ばれています。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと主にいます」(28)と。
私たちの人生において、いつまでもともにあるのは、妻でも夫でもありません。健康でも若さでもありません。もちろん地位や名声や財産ではありません。自分の支えにしていた賢さや知識でさえも、やがて多くを忘れていきます。親しい友も一人二人とこの世を去っていきます。一度しかない地上での人生においていつまでも「ともにいる」と約束してくださるのは「神の御子・救い主イエスキリスト」。このお方は、生涯、あなたがどこに行くにも、あなたとともにおられるインマヌエルの神なのです。
クリスマスの恵みがあなたとともにありますように。