詩篇31:14-24 「こころを強くせよ。主を待ち望む者は」
新年、おめでとうございます。今朝は教会の庭の水たまりに「初氷」が張っていました。コロナ禍のどよんだ空の下で過ごした1年でしたが、今年は凛としたさわやかな日々を歩みたいものですね。
毎年、元旦礼拝は詩篇からメッセージを語らせていただいています。
旧約聖書学者の浅野順一先生は「詩篇研究」の中で、「人生には私たちの力ではどうにも解決できない問題が多く起こってきます。そのような場合、私は詩篇を読むことを勧めたい。詩篇の詩人が取り上げている問題には、病あり、迫害あり、追放あり、罪がある。」と語っています。詩篇の多くの詩人たちから神への信仰を深く学ぶことができるからです。
今朝は詩篇31篇から学びましょう。
2020年はコロナ禍の試練の中で過ごしましたが、2021年もまだその苦難の中におかれています。ダビデも王でありながら、一人の人間として多くの苦悩を経験しています。「ひそかに張られた網」(4)は、敵の策略や迫害を、「私の魂も体も苛立ちで衰えてしまった」(9)は、病気で弱り果てたことを、「私の力は咎によって弱まり」(10)は、罪による苦しみを、そして「人の心から忘れられ、壊れた器」(12)は取り残された孤独を表しているようです。12節の「壊れた器」という表現は「素焼きの土器」を指しています。落としてわれてしまった土の器はもう元には戻れません。このことばには「回復できない絶望感」がにじみ出ています。究極の嘆きは「私はあなたの眼の前から断たれたのだと」(22)と、神様からも見放され見捨てられたのだと思ってしまうほどの暗闇が綴られています。
地上で生きる者は信仰者であっても信仰者でなくても、誰もがこのような苦悩を経験します。しかし、神を信じる者たちはそのままでは終わりません。 「しかし主よ」(14)という、逆転が始まります。さらに「雄々しくあれ、こころを強くせよ。すべて主を待ち望む者は」(24)と勝利のさけびがあがります。ダビデのように、ドン底にあっても、慰めを受け、立ち上げる力を受け、友を励ますことができているのです。神にあっては嘆きが喜びに、敗北が勝利に変わるのです。クリスチャン人生は、決してあきらめない、絶望しない、投げ出さない人生です。旧約においてはダビデが詩篇31篇で、そして新約においてはパウロが「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです」(ピリピ4:12-13)と語っています。
その秘訣はどこにあるのでしょうか。
1. わたしの神への信頼
「しかし、主よ」「私はあなたに信頼し告白します」(14)とダビデは語っています。信頼するという言葉は、信じるということと同じであり、「あなたに身を避けています」(1)、「たましいを御手に委ねます」(5)、「私の時は御手にあると告白します」(15)、「聖徒たちよ、主を愛せよ」(23)と実質的には同じことといえます。この神への信頼がなければ、「しかし主よ」という逆転劇は生まれません。「やっぱり主よ」「しょせんは主よ」「結局のところ主よ」という、あきらめめと投げ出しの生き方に終わってしまうのです。確かにいろんなことがあります。「しかし、主よ」「それでも、主よ」私はあなたに信頼しますと、置かれた現状だけを見るのではなく、現状の先に神を見る信仰が力強く息づいています。旧約的には「全能なる神」を信頼すること、新約的にはよみがえられともにおられる「主イエス」を信頼することに結びついています。
2. 私の時は御手の中に
神に信頼し、神に委ねるべきものの大切な一つは「私の時」です。ダビデは告白しています「私の時は、御手のなかにあります」(15)と。この場合の「時」は複数形ですから、ダビデにとって人生の節目と言えるような「おりおりの重要な節目」を表しています。
私に「時」ということを考えさせたのは旧約聖書の伝道の書でした。人生に変換をもたらしました。「すべての営みには時がある」という真理は衝撃でした。
それまでは自分の時は「自分自身が造る」と思っていたからです。あるいは「運」だと思っていました。熱心に努力して努めればおのずと「その時をつかむ」と信じていました。でもしばしば努力しても報われない現実も経験し、そのたびになんとかしようと焦り、もがき、泥沼に入りこみ、悪循環に巻き込まれてしまったこともありました。一方で、すべてはしょせん「運」次第というなんとも無責任な考え方も強く持っていました。「運がなかったんだから、しようがない。」と、妙な納得をしてこころを落ち着かせていました。少なくとも「私の時が神の手にある」とは思いもよりませんでした。
浅野順一先生は「時には2種類ある。その時の中にいつまでも留まっていたいと思う時と、その時の中から一行も早く抜けだしたい願う時である。幸運な時と悲境の時である」と教えています。幸運な時は思いあがって傲慢になり、悲境の時は焦りもがき自暴自棄になる。いずれにしろそれは「時への正しい態度ではない」とも語っています。さらに、「与えられえた時を、謙遜にまた雄々しく過ごすためには、詩人のように「我が時」を「神の手にある時」とするほかない。時は、神と人とが出会う場所である。我々がおごり高ぶる時には、傲慢を打ち砕く場所として、我々が悔い砕けた時には、我々を救い助ける場所として、時を通して神は人間に出会いたもうのである」と解き明かしています。
神が定めた時がある、そしてそこで私たちは活ける神と出会うのです。
これが「時への正しい態度」といえます。活ける神との出会いを経験しなければ、神の定めた時があっても私たちは、「気に入らない」とパスしたり、「運がよかった」だけにしてしまうことになりかねません。
すべてのわざには時がある。だから待ち望みましょう。神の定めた時には神との出会いがある。神と出会うから、「心を強くし。雄々しくあれるのです」。
「こころを強くしなければならない、こころを折ってはならない」と自力で頑張るのではなく、神の時を待ち望む者は、神との出会いを経験する。だから「こころ強くなる」のです。神の時には人知を超えた大きな恵みが伴っているからです。ダビデは告白し、賛美しています。「あなたのめぐみはなんと大きいことでしょう」(31:19)と。
さあ、あたらしい年、神への信頼を深め、神の時と神との出会いを新たに経験させていただき、歩んでまいりましょう。
「私は私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです」(ピリピ4:12-13)