20200103 新年礼拝 キリストの共同相続人 ロマ8:16-17
毎年、新年礼拝は「日本バプテスト教会連合」の年間主題聖句から宣教させていただいています。今年の主題は「キリストの共同相続人」です。
1. 日本バプテスト教会連合の紹介(スライド使用)
1948年7月、アメリカミネソタ州に本部を置くBGCは、最初の宣教師としてF・B・ソーリー師を日本に派遣しました。続いてH・ヤンクエスト師、G・スワンソン師、D・ビョーク師、E・ノードストロム師、ファンク師、ラム師が来日され、さらに、J・バターソン師、H・スコーグランド師、S・リンドバーグ師も来日され、東京だけではなく和歌山県や三重県において積極的な伝道が始められました。
1965年9月、横山武委員長のもとで、連合は正式に発足しました。宇治バプテスト教会は1983年に加入しました。2020年現在、教会数54教会、信徒数2510名の団体として日本の福音派の中で他教団・他教会との協力と連携を深めながら宣教に仕えています。
2. 今年度の主題は「キリストの共同相続人」です
昨年の11月の総会にて倉嶋理事長は、「新型コロナ感染拡大にともなう対応は私たちの歩みを一変させました。これまでも数々の苦難はありましたがこのような世界的・歴史的な苦難を通らされるのは連合としても初めてのことではないでしょうか。さらに2030年問題を間近にした10年の1年目となります。 私たちはここに改めて主にある望みを共有し、神が与えてくださる栄光を見上げ、十字架の主と共にこの苦難の時を乗り越えてまいりたいと思います。私たちは主イエスキリストとともに神の国の相続人とされています。」と、主題聖句が導かれた背景を説明しています。
日本の教会は直近の課題として「コロナ対策」に真剣に取り組みつつあり、さらに10年後には「2030年」問題に直面させられてまいります。2030年問題とは、「人口の減少が進み、国内人口の3分の1が65歳以上の高齢者(3人に1人が65歳以上)になる2030年に引き起こされる、経済的行き詰まりや年金・医療などの社会保障制度の縮小など様々な問題の総称」を指しています。教会でも牧師の高齢に伴う引退ラッシュ、無牧化、教会の閉鎖、信徒の高齢化と信徒数の減少なども現実味を帯びてきますから、私たちも先を見据えて本腰で祈り、対処する必要があります。
3. さて、今日の聖書箇所では2種類の相続人すなわち「神の相続人」と「キリストの共同相続人」という言葉が出てきます。
1)神の相続人
すべてのクリスチャンは神の子どもとされています。神の御子はイエス様おひとりですから、クリスチャンは神の実子ではありませんが、契約によって養子縁組とされた神の子供たちです。養子であれば、もはや赤の他人ではありません。ましてや奴隷ではありません。親の財産を正統に受け継ぐことができる「相続人」です。
旧約聖書では、相続は神が約束されたカナンの地に入り、約束の地を受け継ぐことを意味していました。新約聖書では新天新地と呼ばれる永遠の神の御国を受け継ぐことを指しています。すべてのクリスチャンの「希望」がここにあります。相続人は天の父なる神様が所有しておられる天の財産である永遠の御国と御国に属するすべての栄光を受け継ぐことができるのです。
これを疑う必要はありません。「本当に私に資格があるのだろうか」と心配するクリスチャンもいますが、その心配も無用です。キリストを信じその保証として神の御霊を受けているクリスチャンたちはすでに、「神の国に国籍を持つ者」(ピリピ3:26)とされているからです。御霊はアバ父よと呼ぶことができる霊ですから、もしあなたが「天の父なる神様」と素直に呼びかけ、「イエスの名によって祈ります」と、祈ることができているなら、あなたは疑う余地のない神の子どもなのです。救いは人間的な熱心という行いによって得られるものではなく、ただ信仰によってのみ受けるものだからです。御霊はその保証(前払い金)です。
2)キリストとの共同相続人
キリストとの共同相続人と呼ばれる理由は、キリストの栄光ととともにキリストの苦難をも共にしているゆえにです。キリスト教信仰においては、栄光と苦難は双子、ワンセットです。復活されたイエス様は将来において実現する神の御国の王の王として来られます。すべての造られた者はキリストの栄光を賛美し、すべてのキリスト者はその日、キリストと同じ栄光の姿に変えられ、栄光の中に輝きます(コロサイ3:3-4)。
しかし、思い起こしましょう。キリストの復活の前には十字架の苦難がありました。オリーブ山での栄光の昇天の前には、カリバリの丘の十字架の死がありました。アリマタヤのヨセフの墓が空になる復活の勝利の前には、ゲッセマネの園での苦闘の祈りがありました。忘れてはなりません。キリストの栄光に預かる者はキリストの苦難にも預かることを。それでこそ「キリストの共同相続人」なのです。欧米では「ノーサクリファイス・ノーブレッシング」(犠牲のないところに祝福もない)という言葉があるそうです。
イエス様は弟子たちに命じました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マルコ8:34)と。
十字架を負うとは、一人一人がキリストを信じるがゆえに受け取る重荷や苦難を意味しています。しかもパウロはこれを「贈り物としての苦しみ」とさえ表現しています。
「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」(ピリピ1:29)と、パウロはピリピ教会の信徒を慰めています。 「苦難をも賜っている」ギフトされているという理解は、苦難に対処する深い知恵と言えます。
年の初めだから、明るい話、面白い話を聞きたいとテレビはどこかしこも朝から晩まで「お笑い番組」のオンパレードですが、これからの私たちは「苦難に強い信徒や教会」に成長する必要があります。相続人は、親の借金をも相続人は相続するのですから、私たちは栄光だけでなく苦難をも相続します。そのために、クリスチャンは、愛するイエス様のために、たとえ「苦しみ」でさえ「贈り物」として与えられていることを学ぶ必要があります。こころを込めて贈る贈り物に不快なものはないはずです。ましてや神様から届けられる贈り物であるなら、幸福の詰め合わせであっても、不幸の詰め合わせなどでは決してありえません。苦しみを「厄介者」「招かざる客」「そんなもの届けられてははた迷惑」「受け取り拒否、即返却!だ」という拒絶的態度であっては、いっそう苦しみが苦しみとして深くなってしまうと思います。
あらゆる苦難も試練も、神様から賜った贈り物として受け取るときに、発想と行動の逆転が起こります。苦難を避けるのでなく、どのように楽しむか、楽しみながら苦難と共存していく、そんな道が開かれ、
そこに新しい喜びもわいてくるのではないでしょうか。
繰り返します。私たちは「キリストとの共同相続人」とされています。そこには栄光と十字架が併存しています。それがクリスチャンの歩む道です。真の教会の道です。
そして苦難がなんであろうと、その後に続く栄光の大きさに比べれば、「物の数ではない」「取るに足らない」とさえ語るパウロの信仰に、小さな私たちも招かれるのです。
私たちの「望み」は栄光のキリストと十字架のキリストにあるのですから。