【福音宣教】 聖霊と火によるバプテスマ

「その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」(ルカ3:16)

バプテスマのヨハネが登場し、「神の裁きの斧がすでに木の根元に置かれている。時が近づいている。だから神のもとに立ち返り、罪の赦しを受けるために、悔い改めてバプテスマを受けるように」と力強く呼びかけました。当時、神殿では異邦人がユダヤ教に改宗するために水のバプテスマが行われました。ところが預言者ヨハネはヨルダン川の岸辺に立ち、罪の赦しを得るための水のバプテスマを民衆に呼びかけました。これは当時としては「新しいバプテスマ」でした。すると罪深さを自覚している民衆がぞくぞくと彼のもとにきて(未完了形)、ヨルダン川に身を沈め、バプテスマを受けました。その中にはロマ政府と結託してあくどい不正な取り立てをしている収税人も、国家権力と武力を背景にして略奪をしている兵士たちも多くいました。兵士らの多くは今日の警察官のような治安維持の役目も担っていましたが、金銭のために正義や法を踏みにじっていた者も少なくありませんでした。しかし彼らでさえ、ヨハネの言葉にこころを刺されたのでした。預言者が語り、神の霊が働くところしばしばこのような覚醒運動の大きなうねりが民衆の中から起こります。

救い主キリストの到来を待ち望んでいた民衆は、この人こそが実は「キリストではないか」と考え、うわさするようになりました。「豚もおだてりゃ木に登る」と言われるように、少し人気が出たり、評判が高まるとついついピノキオのように鼻が高くなり、傲慢になり、自分の立場を忘れてしまいやすいのが人間の弱さと愚かですが、バプテスマのヨハネは、はっきりと否定し、これを機会にメシヤの3つの働きを民衆に示しました。

1. 私よりさらに「力ある方」が来られる。その方の靴の紐を解く値打ちもない(16

2. その方は「聖霊と火」によってバプテスマを授ける(16

3. その方は麦と殻をふるい分け、「麦を倉に納める」(17

1. 靴の紐を解く価値もない

靴(サンダル)の紐を解くとは、イエス様の時代、家に招かれた客は、玄関で埃だらけ、泥だらけになった足をきれいな水で洗いきよめてから入るという習慣がありました。誰が客人のサンダルの紐をほどいて脱がせ、足を洗うかといえば身分の低い「奴隷」でした。ですからバプテスマのヨハネは、神から遣わされるキリストの前には、私は奴隷の値打ちすらないとまで言い切ったのでした。神は神、人は人。預言者は預言者、キリストはキリスト。そこには明確な自己理解があり、境界線が明確に引かれていました。神と人をごちゃまぜにしてしまうのは偶像礼拝です。神は神であり、私たちは土の器にすぎません。

人を恐れる必要はありませんが、神は畏れ敬わねばなりません。それが人の本文です。

2. 神にしかできない新生のわざ

バプテスマのヨハネは「水のバプテスマ」しかできないと言いました。彼はキリストのための先駆者として民衆のこころを神に向けさせる役割を担っていました。ですから民衆に、形だけの信仰のありかたではなく、神のもとにしっかり立ち帰り、神の御こころに叶った生活や仕事、そして兄弟愛に生きるように人々を導きました。水のバプテスマは、悔い改めすなわち「信仰に立ち帰る」仕切りなおしのような意味をもっていました。心機一転、気持ちを入れ替え、生活態度を見直し、再出発をするという決意表明のようなものです。

ところがキリストは「聖霊と火によるバプテスマ」へと導くというのです。「水」と比較して「聖霊と火」という言葉が使われています。訳によっては「聖霊すなわち火」とも表現されています。「水」は汚れを洗い流したり、穢れをきよめたり、燃えさかっているものを消したりします。いわば、「水」は、人間の道徳性や宗教性に関わります。一方、「火」は灰になってしまうまで焼き尽くしてゼロにしてしまいます。点火すれば次々と延焼し、燃え続け、輝かせていきます。いわば「火」は、人間のいのちに関わるといえます。

典型的な例として、ニコデモという超一流の人物が夜、人目をさけてイエス様を訪ねてきました。彼は律法に精通しているパリサイ人であり、知識も豊な学者でした。人格的にも優れ、人々から尊敬されていました。しかも国会議員の一人というりっぱな社会的地位も築いている老人でした。彼こそ、「最も天国に近い人」と思われていました。落ち度がない、非の打ちようがない、異邦人や罪人が受ける水のバプテスマなどにほぼ縁がない人でした。

ところが彼に対してイエス様は、「新しく生まれなければ神の国を見ることができない」(ヨハネ33)と導きました。さらに「水と御霊によって生まれなければ神の国に入ることができない」(5)とも重ねて教えました。罪の赦しときよめを必要とする罪人の一人だとの自覚にしっかり立って、水のバプテスマを受け、御霊によって新しく生まれるという新生体験に招き入れられることを意味しました。神の国を見ること、入ることは、「人間による業」や「宗教的功績や功徳」を積み重ねて到達する類のものではなく、まさに神のめぐみによる人知を超えた「神の御業」であり、御霊によって一瞬のうちにキリストのいのちに結び合わされることを指していました。ニコデモにとってはコペルニクス的転換の発想でした。

汚れをごしごし洗い流すという「うわべの対処」や「応急処置」ではなく、古い自分自身が神の火によって一度、完全に焼き尽くされ灰になってしまい、無になったところから、神の霊によって再創造されるという「新しい誕生」を意味していました。これは人にはできないことです。預言者ヨハネにも不可能なことです。神が遣わされた救い主、キリストにしかできない神の御業、いのちのみわざでした。

3. 天国の蔵に納められる

今日は詳しく触れませんが、キリストは永遠の審判によって、麦の実と、もみ殻とをふるい分け、実を天の御国の蔵に納めることができるお方です。罪びとの罪を赦し、永遠のいのちへと導くことができる唯一の救い主です。救いを完成してくださるお方です。

まとめ

水による「罪の赦し」のバプテスマへ、ヨハネは人々を導きました。それは神の民を神の御こころにふさわしく、信仰によって「正義と愛の奉仕」に生きるという本来の姿に立ち帰らすためでした。民衆には隣人への愛の施しと奉仕(11)に生きることを。不正な取り立てをする取税人には「公明正大」な仕事に戻ることを。兵士たちには権力に溺れず正義に立つことを意味しました。ですからこころを刺された取税人も兵士たちも外国人たちも、ぞくぞくとバプテスマのヨハネのもとに来て、バプテスマを受けました。神に立ち帰ることを学んだのでした。

驚くことに、やがてイエス様ご自身も謙虚に、預言者ヨハネからバプテスマを受けました。「正義と愛の奉仕」の極みとして、十字架にかかり、ご自身のいのちをもって民の罪をあがなうためです。

バプテスマは新しく誕生、神のいのちに生まれる始まりです。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリン517

コロナ禍の試練が収束したならば、バプテスマを受けてあなたも「神と人仕える奉仕の人生」を、キリストにある新しい人生を、歩みだしませんか。

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