【福音宣教】 イエスキリストの系図のミステリー・隠された恵み

20210307 ルカ3:23-38

ルカはイエス様のバプテスマの記事の後、イエス様の系図を記しています。日本でも系図は尊ばれます。ちなみに小出家は藤原南家の家系で尾張名古屋に移り住み、秀吉の正妻北政所の妹の夫であった小出秀政は安土桃山時代から江戸時代まで小大名であったそうです。新潟県魚沼市にはJR東日本の路線に「小出駅」があるそうです。遠い遠い親戚が住んでいるかもしれませんね。

しかしながら、クリスチャンである私にとっては「天に国籍」を持つ「神の国」に属する「神の家族」の一員という救いにまさる恵みはありません。

ユダヤ人はことのほか、系図を重んじる伝統がありましたから、マタイ福音書は「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエスキリストの系図」(11)という家系図から書き始めています。作家の三浦綾子さんは「作家の目から見たら、聖書ほど売れない書き出しをしている本はない」と語っています。なぜなら大事なつかみの部分が味気の無い系図から始まっているからだそうです。

さて一方、ルカの福音書はマリアの夫となったヨセフ(23)から順次さかのぼって、ダビデ(31)、イサク、アブラハム(34)そしてセツ、アダム(38)までの系図を記しています。アダムからイエスまで77人の名前が記されています。

実は聖書の系図には様々な意味や意図が込められています。マタイではイスラエルの先祖であるアブラハムから順次、現在に至る流れになっていますが、ルカは現在から始めて人類の先祖であるアダムそして神にまでさかのぼる流れになっています。

1. マリアの系図であった

諸説がありますがルカの福音書の系図の特徴は、マリアの家系となっていることです。ヨセフはヘリの子(23)となっていますが、実はヘリはマリアの実の父の名前です。ヨセフの父はヤコブ(マタイ116)とされています。つまりヨセフの父の名前が義理の父の名前に意図的に替えられているのです。それはイエス様の系図に夫ヨセフは関係していないことを示しています。イエス様の父は「天の父なる神様」であることをこの系図は明らかにしていると考えられます。

イエス様は周囲の人々に大工ヨセフとマリアの子どもであると思われていましたが(23)、そうではなく「マリアは聖霊によって身ごもり」、生まれた子は「神の御子」であることが強調されているのです。

2. イエス様の系図はアダムまでさかのぼる

マタイの系図はアブラハムまで遡って記されていますが、ルカの福音書ではさらにアダムまで遡って記されています。訳によっては「セツ、アダムそして神にいたる」(シュラッター)ともなっています。その意図はどこにあるのでしょう。救い主イエスはユダヤ民族だけの救い主ではなく、アダムから始まる全人類のための救い主であることが明らかにされているのです。キリストのめぐみは全世界に、全人類にまで及んでいることを示しています。

「すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた」(ヨハネ19

全人類がまさにこのお方、救い主イエス様につながっているのです。イエスキリストはダビデの子、アブラハムの子であるとともに、神の子であり、世界の救い主であることを子の系図は示しています。

3. マタイの系図に登場する4人の女性の名

さて、ルカの福音書の系図から離れて、マタイの福音書の系図に目をとめると、大きな特徴に目が留まります。実はマタイ福音書の系図にはタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻(バテシバ)の4人の女性が出てきます。この4人は系図に名が記されるべき立派な人物ではなく、自分の舅を姦淫したタマル、遊女であったラハブ、異邦人の女性ルツ、ダビデが姦淫したバテシバでした。むしろ一般的には系図からは隠蔽したいあるいは消し去りたい不名誉な罪びととされる女性たちでした。そのような彼女たちの名がイエス様の系図にはっきり記されているのは、まさに罪ある人間の子の一人としてイエス様は世に生まれ、罪に満ちた世界のただ中に来られたことを意味しています。

「そこで、イエスは答えて言われた。医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」(ルカ5:31)

「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)

さらに、この4人の女性たちは、少なくともルツはモアブ人、ラハブはエリコの土着人であることがはっきりしています。メシアの血筋の中に外国人・異邦人たちが混じっているのです。これはイスラエル民族に預言者たちを通して伝えられていた約束のメシアが、ユダヤ人だけではなく、異邦人のためにも来られることを示しています。
イエス様は全世界、全人類のための唯一の救い主なのです。この方以外に天の下では、救い主の名を誰も持ちえないのです。ルカは使徒の働きの中でもこのことを強調しています。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒412

系図には神の大きな恵みが隠されています。作家の三浦さんが語っているように無味乾燥な名前の羅列のように思われ、初めてマタイの福音書を開いた方は聖書を閉じてしまわれるかもしれませんが、その狭き門の先には大きな恵みの世界が広がっています。

罪深い一人の無力な存在であることを私たちが人生で知ったとき、人生の試練や危機に際して、神の助けをへりくだって仰ぐとき、日本人の私たちも救い主であるキリストの招きの言葉を聞くことができるのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ1128

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