【福音宣教】  悪霊に黙れと命じる主イエス

ルカ431-34   20210411

生まれ故郷ナザレで村人たちから受け入れてもらえなかったイエス様は、40kmほど下ったガリラヤ湖に面する漁師たちの町カぺナウムに来られ、安息日ごとに教えを語り続けました。この町でイエス様は最初の弟子たちを招き、人々の病を癒され、福音を語り伝えました。イエス様の教えには権威があり人々は驚きました。

1. イエス様の宣教 神の国は近づいた

イエス様は何を教えられたのでしょうか。「神の国は近づいた。悔い改めよ。福音を信ぜよ」(マルコ1:15)でした。「神の国」ということばは「神のご支配」という意味です。
神の国が近づき、実現することは、それまでのサタンの国が追いやられ責められついに滅亡することを指しています。いいかえれば、神が遣わされたメシア・キリストが、神の力と権威をもって「サタンの支配」から人々を解放する時がついに来たという宣言でもありました。だから悔い改め、すなわち「方向転換」をして、神に背を向けて自己中心、我欲にとらわれて生きていく生き方(これを聖書は罪・的外れと呼んでいます)をやめて、神のもとに、今こそ立ち帰りなさいという、メッセージでした。

神の国とサタンの王国、光の支配と闇の支配、いのちと死の支配の対立という壮大なドラマが歴史を貫いています。キリストによる新しいいのちの権威と、衰え敗北していく古い闇の権威の対決の一環として、実例として悪霊の追放が記されているのです。

ガリラヤ地方のカぺナウムの町で行われたイエス様の力と権威に満ちたかずかずの御業の筆頭に、ルカは「悪霊の追放」、「悪霊につかれた人の癒し」を記したのでした

まさに「異邦人のガリラヤは光栄を受けた。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(イザヤ92)と預言されていることの実現でした。

パウロは 「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』」(使徒2618)と神の召しについて語り、「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロ1:13)と、神の救いと恵みの偉大さを語っています。

2. 悪霊を黙らせたイエス様

イエス様の時代、悪霊信仰は一般的であり、悪霊たちが神に敵対していると考えられていました。悪霊たちの最高の支配者がサタンでした。悪霊は人間の中に入り込み、病や精神の乱れや人格の分裂を引き起こし、取りついた人間を破壊していくと考えられていました。

そんな悪霊につかれた人が会堂にやってきて、大声でわめきだしました。「あなたがどなたであるかわかっています。神の聖者」ですと。

興味深い話があります。古代社会では相手の実の名を知ることは、相手の力を奪い自分のものにしてしまうという考えがあったそうです。旧約時代、ヤコブはヤボクの渡しで神の人と組み合った時、「あなたの名はもうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ」と告げられました。するとヤコブはさらに「どうかあなたの名を教えてください」と尋ね、祝福を受けました(創世記3229)。 悪霊はイエスの名をしってこれを利用しようとしたのではないか、だからイエス様は悪霊を叱りつけ「黙れ」と命じて、悪霊を追い出したのだと主張する学者もいます(喜田川信 日本聖書神学校教授)。

3. 悪霊の存在を私たちはどう受け止めるのか

神を信じる者は神に敵対するサタンの存在を認めます。天使の存在を受け入れる者は堕落した天使たちと言われる悪霊を信じます。これはすべてのクリスチャンたちが共有します。

悪霊は恨みや怒りをこの世に残した死者の霊魂であるとかは受け入れることはできません。

聖霊すなわちキリストの御霊を心に宿す者のなかに、悪霊がいともたやすく住み込むなどというオカルト的な考えを私たちは退けます。しかし悪しき霊やこの世の教えや肉的な価値観の「影響」を私たちは受けてしまい信仰がぶれてしまう現実はすなおに認めます。だからこそ「キリストのことばを心の内にゆたかに住まわせ・・詩と賛美と霊の歌とにより感謝にあふれて心から神に向かって歌う」(コロサイ:16)ことを願い求めます。

ルカに登場してきた悪霊につかれた人物に関して、イエス様は「悪霊」と「悪霊につかれてしまった人」とを区別しています。これは大事な視点です。コロナウィルスとコロナに感染した病人いわば被害者を区別することで偏見差別によって深く傷つけてしまうに罪に陥らないことと同じと言えます。先ほど紹介した日本聖書神学校の喜田川先生は説明しています。悪霊につかれてしまうことと、その結果自分を悪霊と同一視してしまうこととは違います。悪霊と同一視してしまい、かけがえのない彼自身の人格が支配され破壊されることは悲劇そのものです。悪霊はイエス様の権威によって追放され、その人自身はイエス様の愛によって癒される存在だからです。悪霊は彼に不安と恐れと絶望しか与えませんが、イエス様は彼に平安と解放と希望を与えてくださるのですというメッセージを語っています。

精神的な疾患や脳に損傷を受けてしまった脳性まひなどの障害を持つ人々を「悪霊につかれた人」と呼び、軽率にもその人に向かって「悪霊を出ていけ」などと命じるような愚行は避けなければなりません。

悪霊の働きをオカルト面からとらえるのではなく、キリストの御国のご支配がサタンの支配を打ち破り、人々を闇と死と罪から解放していくその一環として、第一歩として、イエス様のことばと権威によってまず悪霊が追放されていく事実が聖書にしるされていると理解しましょう。最後の敵である罪と死の力は十字架と復活によって打ち破られ、神に敵対するサタンとその国はキリストの再臨によって完全に滅ぼされるのですから。

「キリストはすべての君たち、すべての権威と権力を打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである」(第1コリント1524

「死は勝利にのまれてしまった」とあるように、悪霊の追放はイエスキリストによる神の国の宣教のしるしなのです。

私たちの心が思い乱れる時、騒ぎ立つとき、そのような自分自身に対して、キリストを信頼するもう一人のあなたから、「静まれ、黙れ、キリストの平安ここにあり」とイエス様の救いの権威とことばを信頼して、語りかけてみましょう。キリストの平安が満ちるところは、神の国が支配するところそのものなのですから。

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