2021/5/2 主日礼拝 ルカの福音書5:1-11
4月29日(木)午前1時36分に小森春子姉妹は安らかに天に召されました。質素ながらこころあたたまる2日間の葬儀のご奉仕に携わってくださった皆様に心から感謝いたします。
さてイエス様はガリラヤ湖の畔、漁師たちが多く住むカぺナウムの町を中心に神の国の福音を宣べ伝えられました。イエス様のなさった大きな神の御業の一つは、「弟子たちを招き、彼らを育て、世に派遣された」ことです。イエス様に残されていた時間は3年半でした。それゆえ、イエス様はその時間の多くを「弟子づくり」のために費やされました。どの世界でももっとも困難な仕事の一つは「後継者」づくりではないでしょうか。イエス様が最初の弟子となった4人の漁師たちをどのように招かれたかを学びましょう。
1. 深みに漕ぎ出しなさい
朝早くから多くの群衆が、神の言葉を聞こうとイエス様のもとに押し寄せてきました。そのためイエス様は、夜の漁を終えて網を洗っていた漁師のシモンに頼んで乗り込ませてもらい、船の上から浜辺にいる群衆に向かって神の国のメッセージを語りました。その後、イエス様はペテロと弟のアンデレに向かって「深みに漕ぎ出し、網を下ろしなさい」と語りかけました。昨晩、二艘の船で漁に連れ立って出かけたものの、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネたちは一匹の魚もとれませんでした。イエス様は彼らの心の内の落胆ぶりをすでにご存じでした。しかしペテロは「私たちは夜通し漁をしましたが全くだめでした。でも、おことばですから」と、小舟を深みへと漕ぎ出しました。
ここには大きな岐路.別れ道が描かれています。自分たちの経験にとどまるか、イエス様のことばを「神のことば」として聞いて受け入れるか。神の国に招かれるかいなかの決断に私たちも立たされます。プロの漁師である自分たちのほうがガリラヤ湖の魚については詳しい、朝になって日が上ってから網を下ろしたところでとれるはずがない(これは漁師の世界の常識)、その上、もう疲れ切っている(体力の限界)、これ以上はもう「無理、無駄、無意味」、やめてよ!と言いたくなるまさにその時、「でもおことばですから」と、人間のことばに立つか、イエス様の「神のことば」に立つかで、その後の人生の道が大きく異なるのです。
大笹姉妹が昨日の葬儀の中で語られた小森姉妹とのエピソードが印象的でした。ご長男の大学受験を願っていましたがオープンキャンパスの締め切りが4時でしたが、小森姉妹が今からでも間に合うから行きなさい。「でももう時間が‥」「そんなこと言うもんじゃありません」と言われ、背中を押されて車で一緒に送ってもらい大学の先生方とじっくり相談できたそうです。無事合格したものの今度は、勉強しない息子に対してつぶやいたとき、またしても小森さんから「そんなこと言うもんじゃありません」と。3度も言われたことばが、心に深く残っていますという内容でした。
イエス様もペテロに対して「そんなこと言うもんじゃありませんよ」といったかどうかわかりませんが・・、ペテロは「でも、おことばですから」と従いました。人のことばやこの世の常識、自分の知識や過去の経験からくる思いを、神のことばより優先させれば、現状維持のままかもしれません。けれども思い切って逆転させ、神の言葉を優先させた時から人知を超えた神のドラマが始まるのです。
2. 網が破れそうになった
その時、いったい何が起きたのでしょうか。神の御子イエス様のことばに信頼し、従った時、何も取れないはずの湖に網を下ろした時、「おびただしい魚の群れが入って網が破れそうになった」のでした。イエス様のことばには「神の御国」の力があります。魚の群れが回遊する方向をペテロの船の下側に変えてしまったのでしょうか。それとも魚が隠れている特別な場所にピンポイントで網が投下されたのでしょうか、わかりません。
しかしいずれにしろ何も期待できないところから、期待以上の出来事が起きたのでした。悪霊を追放し、病を癒すことも神の御子イエス様のなさる「神の国」のご支配のなせる業であるならば、期待できないようなところから、期待以上のできごとを生じさせてくださる、いわば無から有を生じさせてくださるのがイエス様の恵みの力です。人はそれを「奇跡」と呼びますが、イエス様にとっては「神のことばに信頼する者への当然の結果」に過ぎないのです。イエス様のことばに信頼し、応答し、従う時に、イエス様の力にあずかることができます。信仰をもって「でもおことばですから」と決断する時、祝福の扉が開かれるのです。
ところが現実の私たちは、「お言葉ですが、でも常識的には・・」と、ぐだぐだしてしまいがちです。それでは、下ろした網も破れない代わりに、なにもそこには入らない、スカスカ状態のまま。「でも、おことばですから」とイエス様のことばに従う時、その決断こそが、神の国の力と恵みを経験する鍵となり、恵みと力の扉が開かれるのです。
3. 私は罪深いものです
ペテロは仲間の船に助けを求めました。もう一艘の小舟の持ち主である親しい漁師仲間であったゼべダイの子、ヤコブとヨハネも駆けつけ、おびただしい魚の群れを二艘の船の中に引き上げることができました。
「驚いた」と記されていますが、彼らはおびただしい「魚の量」に驚いたのではありません。イエス様の言葉に従った時、応答した時、沖へこぎ出し網を下ろす決心をしたとき、圧倒的な神のことばの力を体験し、それゆえに「驚いた」のでした。
・その驚きはイエス様への信仰の告白となりました。「主よ、私から離れてください」と。先ほどまでは「先生」(一般的な教師の意味)と呼んでいたぺテロでしたが、イエス様のことばの力を経験した時、「主よ」と告白しています。驚きだけにとどまりませんでした。イエス様のもたらす神の国のご支配、力、恵みを知った時に、ペテロは「自分の罪深さ」への自覚へと導かれたのでした。
「私から離れてください」と願ったペテロですが、小さな狭い小舟の中です。離れたくても離れようがありません。そうです、イエス様を「主よ」と告白する者から、どうしてイエス様が離れることができるでしょうか。「お前を離すことなどありえようか」とさえ、イエス様は約束してくださる救い主です。
「誰も私の手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハネ10:28)
4. 恐れることはない、人間をとる漁師にしてあげよう
離れるどころかイエス様はペテロを祝福してくださいました。「人間をとる漁師になる」、これは「神の国の働き人となる」ことを意味しています。救い主イエスキリストのもとへ世の人々を導く働き人になることを意味します。
若い日には、伝道とは少しでも多くの人々を教会に導き、教会を大きくしていくことだと思っていました。しかし今は、教会を教会として建て上げることが牧師の務めだと思っています。教会が建て上げられるとは、一人一人がイエス様の弟子となって父なる神の栄光をあらわしていくことだと確信しています。
「人間をとる漁師にする」とは、真の意味で「失われた人間が神の前に生きる人間になる」ことへ導くこと、それはキリストのもとへ招くことだと思います。なぜなら生まれながらの人間は、神のかたちに似せて創造された本来の人間のあり方を失ってしまい、人間としての生きる意味や目的がわからなくなってしまい、この世の教え、常識と言われる思い込み、お金中心の価値観、自己中心の生き方の中で迷っているからです。まことの唯一の父なる神と神が遣わされた救い主を知ることの中に、永遠のいのちがあるのです。「知る」とは、人格的な交わりを通して深く理解していくことを指します。
死は私たちに「人として生まれ、人として生きていく道」に気がつかしてくれます。小森姉妹の納棺を行ってくださった納棺師の若い女性が「人の死に携わる仕事をはじめたのは、生きることを見つめなおしたかったからです。死にざまには生きる姿が凝縮されている。」と語ってくださいました。
イエス様が30歳前後の若い漁師たちを弟子として招き、「深みに漕ぎ出しなさい」と命じられたのは、まさに彼らを「生けるまことの神との交わりの深さに導き入れることでもあった」のです。主イエスの弟子の歩みはここから始まるのですから。
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされた イエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)