【福音宣教】 誰が罪を赦すことができるだろうか

2021年5月16B ルカの福音書17-26

先週、当時は不治の病とされ、「誰も直すことができない」重い皮膚病を患っていた病人をイエス様が癒された出来事を学びました。今日の箇所では、イエス様によって中風の病が癒されたばかりでなく「罪の赦しを宣言された」男性が登場します。そして多くの治癒行為よりも、「罪の赦しの宣言」こそがキリストの御業であることが強調されていきます。

1. 友人に運ばれて来た痛風患者

イエス様の評判が広がるにつれますます多くの人々や病人が集まってきました。その中にはイエス様に対して不信感を抱く「パリサイ人や律法学者」たちもいました。彼らは旧約聖書の戒律を解き明かす専門家集団でした。彼らが居座る前で、なんとひとりの病人が天井からイエス様のもとへ床に寝たままの姿で釣り下ろされてきました。中風のために歩くことができず、しかも家の中はもうすでに満員で入れない。かくなる上は、他人様の家だけれど勝手に屋上に上らせていただき、もしわけないけれど屋根をはがせていただき、4人がかりで友人たちが病人を上から釣り下ろしたという次第です。この時代の一般の平屋の作りは石造りで木材の梁を渡して組み合わせ、棕櫚の枝などで間をふさぎ、日干し煉瓦を置いて作ったそうですから、病人をつり下ろす穴をあけることは難しくなかったと思われます。とはいいつつもなんと大胆な行動でしょうか。「運び入れ」「置こう」(18)としてという動詞は不定過去形ですから、友人たちの強い決意や覚悟を示しています。

通常ならこの状態では「今回はムリだ、やめておこう」とあきらめるところです。諦め方の中に「今日は御心ではなかった」というクリスチャン風諦め(?)もあります。4人の友人たちには(家族であるかもしれませんが・・)、何としてもこの機会にイエス様のもとへ連れて行こう、歩けないなら運んで行こう、玄関から入れないなら屋上からでも!という熱心さがありました。あきらめることはありませんでした。そしてその熱心さの背後には「イエス様なら癒してくださる」という「信仰が生き生きと働いて」いました。長い間、中風の痛みを抱え、ついには歩けなくなり寝たきりになってしまっていた彼への「愛」がそこには働いていました。聖書は「尊いのは愛によって働く信仰である」(ガラ56)と教えています。

人生には簡単にあきらめてはならないことが多くあり、またいさぎよくあきらめなければならないことも同じだけ多くあります。しかし、家族の救い、友の救いは、最後の最後まであきらめてはならないひとつです。最後にはキリスト教葬儀をもって残された家族や友人に証しすることもできます。伝道の働きは「団体戦」である(岸義紘)といった牧師がいます。伝道は、牧師による個人プレーではない。教会は一人の「戸板に伏せる罪人」の四隅をもって、イエス様のもとへ導き、永遠のいのちを得ていただくための「愛と信仰による奉仕の働き」を担っているのです。

2. 誰が罪を赦すことができようか

イエス様は彼らの信仰と愛をご覧になって即座に応えてくださいました。「友よ、あなたの罪は赦された」(現在完了形)と、罪の赦しを宣言してくださったのです。

そこに居合わせたパリサイ人たちは律法学者は、イエス様のこの発言を聞いて怒りが爆発しました。「神以外に誰が罪を赦すことができようか? こやつは神を冒涜している」と。

イエス様は彼らのつぶやきと不満げな様子をご覧になり「罪の赦しの宣言と起きて歩けと命じることとどちらがやさしいか」(23)と問いかけ、「起きよ。寝床をたたみ、家に帰れ」と命じました。すると彼はたちどころに癒され、立ち上がり、寝床をたたんで、神を賛美しながら家に帰っていきました(25)。

イエス様は病気の癒しよりも永遠のいのちに至る魂の救いを最優先にされました。そして救いは「罪の赦し」から始まることを群衆に教えられたのでした。

病気の癒しは病人にとっては切実な願いです。また、愛情深い家族にとってもそれは変わりません。治ってほしい、元気になってほしい、また笑顔を見せてほしい、これはだれでも願うことです。しかし、病気が一つ治っても、また次の病気がやってきます。病気を重ねれば重ねるほど体力は弱っていきます。そして、最後は一人の例外もなく死を迎えねばなりません。「生まれては死ぬるなりけりおしなべて。釈迦も達磨も猫も杓子も」と一休和尚は語りました。そうであれば、一時的な病気からの救いではなく、永遠の救い、罪の赦し、神の審判からの解放、これこそが究極のゴールではないでしょうか。罪の赦しこそ、時が満ち、神の御子キリストが父なる神から遣わされた目的であったのです。

誰が私の罪を赦すことができるだろうか。誰がそのような権威をもっておられるだろう?

かつてロシア皇帝アレキサンダーが夜に、兵士たちの宿営地を見回っていた時、一人の兵士のテントに遅くまで灯りがついていた。中に入ると兵士が机にうつ伏して寝入っていた。その机の上には拳銃と遺書らしき紙があった。そこには「一体誰がこんな大きな借金を返済できるだろうか」と書いてあった。皇帝はしばらく考えながらその手紙にひとこと書き加えました。朝、兵士が目覚めて紙を見ると、その続きに「皇帝アレキサンダー」と署名が記されていた。すぐさま彼のもとに多額のお金が届けられたそうです。

誰が私の罪を赦すことができるだろうか。誰がそのような権威をもっているのだろうか。誰が私を助けてくれるだろうか。誰が私を救ってくれるだろうか。誰が守ってくれるだろうか。私たちのすべての叫びと苦悩に対する答えは、「イエスキリストこのお方一人」なのです。

「この方以外に誰には誰によっても救いはありません。世界中でこの御名の他には私たちが救われるべき名としては人間に与えられていないからです」(使徒4:12)

「罪の赦し」は神の御国への入り口の扉です。そのドアを開けるとそこから「神の子とされ」「神の資産の相続人とされ」「天に国籍を持つ者とされ」、「永遠のいのちを受け」、「聖霊の導きを受け」「聖霊が内に住み」などなど、次々と「天のもろもろの祝福」(エペソ1:3)をいただくことができるのです。天の御国の扉の鍵はいうまでもなく、キリストを信じる「信仰」といえます。

イエス様も「彼らの信仰をごらんになり」(20)、「あなたの罪は赦されました」と宣言してくださったのでした。 

3. 賛美して帰っていった

彼は罪(複数形)の赦しを受けました。彼は「立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神を崇めながら、家に」帰りました(25)。喜びながらイエス様のもとから新しい人生へと旅立って行きました。同じ出来事を記したマタイ92では 「しっかりせよ。あなたの罪は赦された」とあります。「しっかりせよ」と訳された原語は、安心、心配するな、喜びなさい、勇気を出しなさい、確信しなさいという意味の言葉です。

赦しは完成している。だから平安と元気をいただいて、もう過去にひきづられないで、起き上がって歩き出すことができるのです。この中風の人は、今までそこから起き上がることができなかった古い「床」をたたんで、歩きだしたのです。古きものはすぎさったのでした。いつまでもそこに縛られることはないのです、これが福音なのです。

2コリント517「キリストにあるならばその人は、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

エペソ17「私たちはこの御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです」

私たちも「神の恵みの栄光」をほめたたえましょう。

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