【福音宣教】 御国のルール 敵を愛し祝福を祈りなさい

2021年7月4日 ルカの福音書6:27-36

先週の平尾姉妹の転入会式に続き、今週から3週連続で外山姉妹、伊吹兄弟、下田姉妹のバプテスマ式が行われます。天の喜びを地においても分かち合わせていただきましょう。

さて、イエス様は「あなたの敵を愛しなさい」(27)と弟子たちに語りました。弟子たちとはイエス様に学ぶ者たちのことであり、神の子、御国の子たちとされた者を指します。先週、私たちは「この世」の幸福(HAPPY)ではなく、「神の国」の幸福(BLESSING)の違いを学びました。今回イエス様は「幸せ」に続いて、「愛」についても、この世のルールとは異なる、天国のルールを語ってくださっています。

1. 敵への対応(あなたの敵を愛しなさい)

敵とは、あなたを「憎む者」(27)、「のろう者」(28)、「侮辱する者」(28)、「頬を打つ者」(29)、上着を奪う者(29)、求める者(29)、奪い取る者(29)たちです。この言葉を聴いた群衆の脳裏にはすぐさま、ユダヤの国を支配するローマ帝国の支配者たちの姿がを思い浮かべたことでしょう。あるいは同じユダヤ人同士でありながら、身分の低い者、貧しい者、力のない弱い者たちを苦しめる身近な悪人・取税人たちを思い浮かべたことでしょう。

では敵を「愛せよ」とは具体的にどういうことでしょうか。この世のルールであれば、「敵は憎む者」であり、「やられたらやり返す」報復すべき相手です。10倍返しどころか100倍返しをしてもまだ足りない相手かもしれません。ところが、やられた相手も黙っておらず、さらなる怒りと報復を仕掛けてきますから、「復讐の連鎖」が延々と続いてしまいます。復讐の連鎖を止め、罪の連鎖から救い出しくださるために、イエス様は天国の新しいルールをイエス様から学ぶ者たち(これを弟子といいます)に示されたのでした。

イエス様は「憎む者には善を行い(27)、のろう者・侮辱する者には祝福を祈り(28)、頬を殴る者にはもう片方を向け(29)、奪い取る者には拒まず、与え、取り戻そうとしない(30)」ことと語っています。上着を奪う者には下着も拒むな(29)とありますが、強盗といえども汚れたパンツまで欲しがることはないでしょう。ここでいう上着は寒さをしのぐコートやマント類を指し、下着とは通上、身につけている衣服のことを指します。
さて、この言葉を聞いた弟子たちは戸惑ったにちがいありません。こんな理不尽な対応を、果たして自分たちができるだろうかと。2000年経った今日でも、私たちクリスチャンは率直に思います。誰にそんなことができるだろうか。そんな絵にかいたような「お人良し」が一体どこにいるだろうかと。今、みなさん、周りを見渡されましたね‥。
普段イエス様と激しく対立しているユダヤ教指導者たちでさえ、「目には目を、歯には歯を」と正当な範囲での報復を認めていました。これを「同害報復法」(レビ2420 申命1921)と言います。敵の危害から身を守るための正当防衛も当然、認めていました。

昼食時に飲酒してダンプを運転し、小学生2人を跳ね飛ばした運転手に対して、子供を殺された両親は加害者を赦せるでしょうか。祝福を祈ることができるでしょうか。とうてい無理な話です。ですからこれは「神の御国」の「愛と赦しの」ルールなのです。イエス様は弟子たちに、この世のルールではなく、神の御国の新しいルールを教えてくださったのでした。6章の前半でイエス様は「神の国の幸い」について教えてくださいました。今日の箇所では神の国の愛の法律、愛の行動の基準を教えておられるのです。したがって、この世のルールとは大きく異なっていました。

2. 誰がそんなことができるのでしょう。

この教えは「イエス様の御国」のルールです。御国の新しいルールを御国の王であるイエス様がまずお手本を示し、実践してくださいました。イエス様の十字架への道程において、敵を愛すること、赦すこと、祝福を祈ること、受けるに価しない者にも永遠のいのちが与えられること、すべてがしかも完全に行われたのです。ここに完全な愛があるのです(第1ヨハネ410)。自分をあざけりののしり、ツバキを吐きかけ、平手で殴り、処刑にするローマの兵士たちに対して「父よ、彼らをおゆるし下さい」(ルカ2334)と、主イエスは祈られました。このような愛は生まれながらの人間には存在していません。

生まれながらの私たち、そしてこの地上でこの世のルールの下で生きる者たちには「赦しと愛」ではなく「恨み・憎しみ、復讐」が中心となってしまうのです。

この愛はアガペーの愛と呼ばれます。それは天の父なる神様のご本質に根差しています。父なる神様は「あわれみ深いお方です」(636)。マタイでは「完全」(548)なあわれみに満ちておられます。父なる神の憐れみを、そして愛を完全にまっとうすることができたのは、神の御子イエス様だけであり、御国の王だからこそ、王みずからが「父のあわれみ」を自らの犠牲の死をもって実践してくださったのです。

3. キリストを信じ神の子どもたちとされた私たちの実践・・黄金律

では私たちに何が求められているのでしょう。「敵を愛し、迫害する者のために祈らなければ」、神の子になれない、神の子にふさわしくないなどと読み込まないでください。人が何かの行為によって神の子になれるという教えを福音は完全に排除しています。この命令は、前提条件ではなくむしろ神の子とされた者たちの結果、あるいは特徴として見られるということです。

基準は次のことばに明確に教えられています。「自分にしてもらいたいと望む通りに相手にしなさい」(31)です。これは「黄金律」とも呼ばれています。マタイ72では「これが律法であり、預言者です」ともいわれています。人間の悩みのほとんどは、人間関係の悩みと言われています。怒りと復讐の連鎖に巻き込まれず、むしろ連鎖を断ちきることができるのは、黄金律すなわち神の国の愛のルールに生かされるからです。

「敵を愛し、祝福する」ことができた御国の王であるイエス様、このお方の愛の御霊を神の子たちはいただいています。神の子たちは、「自分にしてもらいたいと望む通りに相手にしなさい」といわれたイエス様のみ旨を、身近な生活の場のただ中で、行うことができるのです。自分が自分がと自己主張ばかりし、自分の考えが正しいと自我を突っ張ねていたような古い自分が砕かれ、聖霊の愛をそそがれ、「相手を尊重し、相手の立場に立ってものを考える」ことへと変えられるのです。敵を愛し、祝福することは御国の王であるイエス様がなさったこと、そのイエス様の愛の御霊をいただいた私たちは、相手の立場に立ち、相手の思いを理解し、自分がこうしてもらいたい、こうしてもらえばうれしいと願うことを、相手に

真珠湾総攻撃の隊長であった淵田三津雄大佐は戦後、クリスチャンとなりアメリカで牧師として奉仕しました。そのきっかけはアメリカの捕虜収容所で日本人のために働く一人の看護師のことばだったそうです。宣教師であった彼女の両親は、日本軍によって斬殺されました。両親の最後の祈りのことばが「父よ、彼らをおゆるし下さい」であったと聞いたとき、彼女は両親が願っていることは、私が憎しみを超えて赦しと愛に生きることだと悟り、負傷兵や病人が最も願っているであろう「心のこもった手厚い看護」をさせていただこうと捕虜収容所ではたらく決心をしたのでした。

黄金律という新しい御国の愛のルールに生きることを志す者たちが、「怒りと復讐の連鎖」を止め、その束縛から解放されるのです。これもまた「神の国」に生きる者たちの「幸い」といえるのではないでしょうか。大きなことはできないかもしれません。しかし私たちもまた御国の子の1人として、イエス様の愛をいただき、身近な場所で「「自分にしてもらいたいと望む通りに相手にしなさい」とのイエス様のことばに生きる者とされましょう。

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