2021年7月11日 ルカ6:7-46
「裁いてはいけません。罪に定めてはいけません。赦しなさい、与えなさい。」ここには4つの動詞が使われ、しかも現在形の表現ですから、主の弟子の日常生活の特徴・習慣としなさいという意味を持ちます。日曜日だけあるいはクリスマスだけの特別バージョンではなく、1年365日の普段のクリスチャン生活の習慣としてゆくことが教えられています。
1. 裁くこと、罪に定めることは、神がなさることです。人間が怒りに任せて感情に任せて公平さを欠いたまま、裁き・断罪してはならないと戒められています。不完全な裁きをすれば、法廷では「冤罪」をつくることになってしまいます。それは決して許されないことです。一方的に裁かれ、罪に定められた相手は、とうてい納得できず、怒りに燃え、あらたな復讐の連鎖を生み出してしまう結果に陥ります。それはイエス様がもっとも嫌われたことでした。
生まれながらの人間は、「やられたらやり返す」と復讐の原理に支配されています。ところがイエス様は新しい愛の原理をもって、復讐の連鎖を断ち切ってくださり、古い肉の原理から解放してくださいます。「右の頬を打たれたら左の頬を向けてやりなさい」とイエス様は教えられました。これは方法を教えているのではありません。右の頬でも左の頬でもかまいません、やられたらやり返すという復讐の連鎖を止めようとする根本的な精神を教えているのです。
イエス様は、決して個々の行動を規定しようとはされませんでした。それは律法学者たちがすることでした。
かつて札幌農学校に校長として赴任したクラーク博士は、校則の見直しをしました。やんちゃな学生たちを良い生徒にしようと、それまでの教師たちは数多くの校則を作って行動を規制していました。クラーク博士は校則を全廃し、ひとつだけに集約しました。「BE GENTLEMAN」(紳士たれ)という校則でした。こうして自律的な人間的成長を願う校長の志のもと、日本の歴史を動かす多くの若き人材が各地に送りだされたのでした。
「あなたがたの天の父はあわれみ深いお方である。だからあなたがたもあわれみ深くありなさい」(36)。これがイエス様の語る中心メッセージでした。それは「神の行動の法則」(NTD)を自分たちの態度の法則となすことを意味しています。神の行動の法則は天国のルールと言えます。恩知らずの悪人にもあわれみ深い父なる神様(35)は、悪人にも太陽を上らせ。雨をふらす恵み深いお方です(マタイ5:45)。あなたがたはその父なる神様の子とされたのです。だからあなた方は父のあわれみ深さの中に自らも生きるように志そうと教えたのでした。これこそが天国のルールに生きる根本的な日々の行動と言えます。
日本では裁判員制度が始まりましたが、宗教上の理由で拒否するクリスチャンもいると聞いています。聖書に「裁いてはならない。罪に定めてはならない」と書いてあるから拒否しまうと主張する方もいます。しかし裁判官の中にも、あるいは検事たちの中にもクリスチャンは多くいます。人を裁く立場にあるクリスチャンたちは、「まず、自分の目の中にある梁を取り除きなさい。そうすれば兄弟の目のチリがはっきり見えて、取り除くことができるから」(42)と言われた主イエスのことばを他の誰よりも真摯に聞く必要があります。主イエスのことばを自覚しているかいなかが深く鋭く問われ、いつも身を引き締めて職務にあたっておられます。
2. 肯定的に2つのことは積極的に奨励されています。赦すことと与えることです。
赦すこと、与えることによってかえって多くを得ることになるとイエス様は弟子たち教えられました。これもまた不思議な天国の法則です。「そうすれば人々は不正な量りを正しい量りに直し、容器いっぱいに盛り付け、あふれるばかりにしてくれます」(38)と語りました。イエス様ご自身が十字架にかかり、流された尊い血をもって罪人の罪を赦しきってくださり、いのちさえも惜しまずに与えつくして天国への道を用意してくださいました。
十字架のご苦難は、あふれるばかりの神のめぐみと栄光となって輝いたのでした。十字架の御子の死の意味を理解したパウロは、「私はすべての人に返さなければならない、負債を負っている」(ロマ1:14)と語り、十字架の赦しの福音を全世界にいのちをかけて伝えようと決心していたのでした。
3. 心にあるものが外に出る
「人の口はこころに満ちているものを話す」(ルカ6:45)とイエス様は言われました。これは道徳の教えではありません。イエス様の弟子たちはすでに神の子どもたちとされました。神の子たちはイエス様と共に神の国の資産の「共同相続人」とされています。私たちはもうすでに「イエスキリストにおいてすべてを受けた」存在です。まだ何かがたりないようにふるまっていてはなりません。すべての良きものをもういただいているのです。人のことばは内側に満たされているものが外にあらわれ形をなったものです。人の行動は内側に満ち満ちているものが外に現れたものです。内にいただいている神の恵みが、神の子たちの生き方そのものとなり、映し出されるのです。
その一つが「感謝」ではないでしょうか。斉藤敬子姉妹は93歳の地上の生涯を全うされました。昨日、教会堂で葬儀が執り行われました。60歳でバプテスマを受けられた時に語ってくださった証しには、「見るもの聞くものすべてが新しくなり、感謝があふれるようになりました」と記されています。33年経った今もなお、姉妹の口から感謝のことばはあふれていました。年月とともにすべてが減っていく世の中ですが、姉妹の心の中の感謝は目減りすることなく、いよいよあふれ出ていました。看護師さんたちに対してもいつも笑顔で「ありがとう」と声をかけておられました。点滴で手首が青黒くなっていても、「自分じゃこんなことできないし、感謝、ありがたいね」と語っておられたそうです。厳しい苦難と痛みの中で、それでも「ありがたいね」と、感謝できるのは、本物の神の子の姿といえます。
それは天国のすばらしい資産である、喜び、平安、希望、やさしさ、忍耐、寛容・・すべてが、心の中に豊かに満ちているからにほかなりません。
私たちも、父なる神様の「あわれみ深さ」を想い顧み、赦しと感謝に生きる者とされ続けましょう。敵さえも十字架で愛し、赦し、祝福された御子イエスキリストの愛の御霊(ロマ15:30)をいただいている私たちにはそれができるのです。 大丈夫です。 神の子にはできるのです。