【福音宣教】 岩の上に人生の家を建てる

2021年7月18日 ルカの福音書6:43-49

マタイでは「岩の上に家を建てる」賢い人と、砂の上に家を建てる」愚かな人(マタイ724-27)のたとえ話として語られています。ルカでは、イエス様を「主よ」と呼ぶ、主の弟子たちに向けたメッセージとして語られています。イエスキリストの呼び名として、「救い主キリスト」と共に「主イエス」という表現が多く用いられています。「主」とは自分が仕えるお方、あるいは神という意味です。対のことばは「しもべ」あるいは「奴隷」です。そして、人生において誰を「主」とするかは大きなテーマとなります。お金を主とするか、仕事を主とするか、神以外の人間を主とするか。主イエス様は信じ従う者を「友」と呼んでくださいますが、お金や仕事を主として選べば、その「奴隷」となってしまい支配されてしまいます。

1.  神のことばのまなび方

口先だけで「主よ、主よ」と呼ぶ者に対して、イエス様は「私のもとに来て、聞いて、行う人」(47)となりなさいと、イエスの言葉を行なうことの重要性を強調しています。そうすれば「洪水のような試練にも建てた家はびくともしない」(48)との結果に導かれると約束してくださっています。

み言葉を聞くだけの人にならず、みことばを行う人であることを主イエスは望んでおられます。それはイエスのみこころに生きることを意味し、生活の場面においてイエスの主権を認めることを意味します。それがイエス様を「主よ」(キュリオス)と呼ぶ者たちにふさわしい生き方だからです。イエス様の兄弟ヤコブは「みことばを行う人になりなさい。心に植え付けられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばはあなた方のたましいを救う力があるからです」(ヤコブ122)と、み言葉の力に対する深い信頼を教えています。

2. 地面を掘り下げて「岩の上に土台を据える」(48

掘った、深くした、据えたの3つ動詞は「不定過去形」ですから、決意をもって徹底的に行うことを意味しています。岸義紘先生は注解書の中で「彼らは聞いたことよく考え、深く掘り下げる人だ。それによって信仰の土台であり、岩であるキリストへの信仰を強め、豊かにして、おことばを実践する人のことである」と解き明かしています(p265)。

「大雨が降り、洪水が来る、激流が一気に押し寄せてくる」(49)日が、すべての人に来ます。歴史的にいえば世の終わり「終末」の時が確実に来ます。個人的に言えば、人生の終わりの日が確実にきます。それは誰も避けられない日です。「まだ私は若いし大丈夫だ」とは決していえません。「まだ明日がある、明後日も1年後も10年後もある」とも言えません。死はいつどこで顔を見せるかわからないのですから。
死だけではありません。すべてを一瞬にして飲み込み、押し流し、破壊してしまう、思いもよらない人生の危機的試練もあります。のどかな温泉街の熱海の山あいの谷を襲った土石流の破壊のすさまじさがテレビ繰り返し放映され、私たちは「人生に安全地帯は存在しない」ことを再認識させられました。

地面を深く掘ることが強調されています。「地面を深く掘り下げる」と何が出てくるでしょうか。教会が以前あった小倉町は、小椋池と呼ばれるおおきな湖があった場所を干拓して住宅地が造成された土地でした。そのため、少し掘れば水が出てきました。今ある教会の場所は山手の高台ですから、掘ればやがて堅い岩に当たるかもしれません。

キリスト教の信仰は聞くことから始まる世界です。聖書という「神のことば」を聞くことからすべてが始まります。聖書は一点一画さえすたれることのない永遠の書、普遍的な真理のことばです。ですから聖書との出会いが重要になります。それゆえ教会は常に「聖書」を語ります。そしてクリスチャンは生涯、聖書に聞き、聖書に学ぶ日々を歩みます。

ロマ10章17節では「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ロマ1017)と教えています。

信仰の世界というのは行いや知識を「積み上げていく世界」というより、聖書を「深く掘り下げていく世界」です。そうすれば何が出てくるのでしょう。堅い岩であるキリストが出てくるのです。すべての基礎となる「キリスト」に出会う世界です。

聖書なくして信仰は成り立ちません。聖書と信仰が交わるところにキリストが現れます。聖書が祈りによって堀り下げられていくとき、聖霊はキリストとの人格的な交わりへと導いてくださいます。祈りのない聖書の学びは、単なる聖書知識とキリスト教教養をもたらすだけで終わってしまいます。日本の文学の中でも聖書を題材にした小説は多く描かれています。太宰治なども聖書を愛読したそうですが、悲しいかな信仰によって掘り下げるのではなく、人間的な理性で掘り下げた結果、キリストとの出会いを得られず、キリストを「主」と告白することができませんでした。聖書は明言しています。「誰も聖霊によらなければ、イエスを主と言うことはできないのです」(1コリン123)と。

3. キリストに信頼して

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ157-8

主イエスを「主」と呼ぶ者は、主の弟子と呼ばれます。主の弟子とは「イエス様にとどまり続ける者」であり、「キリストのことばがとどまっている者」でもあると言い換えられています。キリストのことばが記されている聖書を掘り下げることで、人生の「堅い岩」であるキリストと出会っていくのです。キリストに信頼し、どんなときにもキリストに委ね、キリストがかならず良いことをなしてくださる、だから大丈夫、安心であると、堅い岩であるイエス様と一体となって人生の家を築いていくのです。

クリスチャンは困った時や願い事があるときだけ、主を必要とするご利益中心信者から卒業する時を迎えます。最初はみんなそうですから気にする必要はありません。「すべて重荷を負うて苦労している者、疲れた者は来なさい。休ませてあげよう」(マタイ1128)と言われてイエス様のもとに来たのですから。ところが、この休みは、なにもしないでのんびり過ごす「休み」ではありません。「竪琴」の糸が張りすぎて切れかかっている状態なので、一度緩めるという意味です。本来の竪琴の目的は「美しい竪琴ならではの音を奏でる」ことです。糸(弦)が緩めっぱなしで、竪琴が単なる飾り物、置物なってしまっていては、持ち主を悲しませます。本来の価値が失われたままです。

糸・弦は再びキリストにあって新生し、竪琴にイエス様によってほどよく張りなおされ、父なる神様を喜ばせる音色を奏でるようになります。竪琴の弾き手はもはや自分自身ではなく、主イエス様であり、竪琴はイエス様の腕に抱かれています。こうしたあり方を「幸せ」と呼ぶのです。

平尾さんの転入会から始まり、今日の下田さんのバプテスマ式まで4週連続で、新しい神の家族を私たちは迎えました。願わくは一人一人がみことばを掘り下げ、掘り下げ、堅い岩であるイエス様と出会い、人生の家をこの岩の上に築いていただきたいと願います。

93歳の生涯を終えられイエス様の御もとへ召された斉藤敬子姉妹は、み言葉を生涯愛された信仰の人でした。古い図書の貸し出しカードには敬子姉妹の名前が何回も記入されています。病室での最後の時には、苦しみからも解放され、詩篇3篇のことばに包まれてイエス様の待つ御国に行かれました。大好きなイエス様のそばでイエス様のことばに顔を輝かせて聞き入っておられるのではないでしょうか。あのマリアのように。「逆境の中の恩寵」というやや古めいた言葉がありますが、今も真実です。詩篇11971「苦しみにあったことは、私には良いことでした。これによって神のおきてを学ぶことができました」とあるように、試練にあってもその中に、いままで気がつかなかった、そうでなければ知らなかった神の恵みを見出していくことができる幸いが、みことばに生きる者には用意されているからです。

生涯、イエス様を「主」と告白し、主イエスのみ言葉を聞き続け、み心の中に生きるお互いでありたいものです。

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