2021年7月25日 ルカの福音書7:1-10
イエス様はカぺナウムの町で一人の異邦人(おそらくローマ人)の高級軍人、百人の兵士たちを束ねる百人隊長に出会いました。彼は大切な自分のしもべ(奴隷)が病気で死にかけていたので、イエス様に助けに来てくださるように願いました。後に、イエス様は「かれのような立派な信仰(great faith )をイスラエルの中に見たことがない」(9)と驚かれました(最大級の驚嘆)。ではどんな信仰だったのでしょうか。
百人隊長は、イエス様のもとにユダヤ人の「長老たち」を送り(不定過去は大きな期待を込めて送り出したことを意味している)、しもべを助けてくださるように願い出ました。依頼された長老たちはイエス様に熱心に懇願し続けました。「彼はユダヤ人を愛し、会堂を建ててくれました」(5)と告げているように、異邦人でありながらユダヤの国を愛し、ユダヤ教への理解を示し、しかも軍人でありながらユダヤ人を圧迫せず、暴力で抑え込むというのではなく、財産を寄進してユダヤ教のりっぱな会堂を建て上げることに惜しみなく協力をするような人物でした。資金だけでなく必要な場合は部下の兵士たちを派遣させ、資材の運搬や建築などにも便宜を図ったと想像できます。
政治的軍事的支配下にある民族を差別せず、圧迫せず、さらに異なる宗教に対しても寛容さを示し(あるいはイスラエルの神への信仰を抱いていた可能性も考えられます)、長老たちからの人望も厚い人物でした。だから長老たちとも普段から親しい交流をもっていました。それゆえ長老たちがイエス様との仲介を喜んで引き受けたと思われます。
また自分の家の「しもべ」(奴隷)に対してさえ、病の癒しを心から願う深い愛情を注ぐような人物でした。奴隷など銀貨30枚で買える時代に、とっかえひっかえ補充ができるような時代に、身分差別が大きく奴隷の人権など問題にされないような時代において、彼はしもべを「「大切に」し、彼のいのちを尊んだのでした。
信仰と愛は深く結びついています。そして尊いのは愛によって働く信仰であると聖書は教えています。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラ5:6) 「どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。」(エペソ6:23)
異邦人であった彼にとってユダヤ人は敵ではなく友であり、僕たちも奴隷でなく友であったのです。もし信仰がなければ「友さえ敵にしてしまう」「味方さえ敵にしてしまう」ような愛の冷えた現代社会ではないでしょうか。隣人愛、神の家族としての絆と愛に互いが生きることそのものがイエス様を信じる信仰に生きるすがたそのものと言えます。
2. みことばの権威を信じる信仰
イエス様が来てくださるとわかると、百人隊長は、今度は友人たちをイエス様のもとに送り、「私の家にお迎えする資格はありません」とへりくだりました。かつてナアマン将軍がエリシャのもとを馬と戦車に乗って訪ねた時(Ⅱ列王5:9)、エリシャが彼を出迎えるどころか挨拶もしないことに腹を立てたナアマン将軍の傲慢な姿とは異なります。鎧を脱ぎ捨て剣も捨てて「ヨルダン川に下って行って7度、身を沈めよ」という預言者エリシャのことばを屈辱と感じていさぎよく従おうとはしませんでした。
ところがイエス様を信じるこの百人隊長は、謙遜さを示しただけでなく「お言葉をください」と願い出ました。自分も百人の兵士を束ね、指揮し、命令を下す立場にあるので、上官の命令には権威があることを知っています。神の子のイエス様のことばには権威があり、病を癒し、悪霊を追い出し、信じる者には神の国の恵みが支配することを彼は信じていたからでした。「謙遜さ」と「神のことばの権威へのゆるがない信仰」を見て、イエス様は「これほどの信仰を見たことがない」と驚くとともに喜ばれたのでした。
3. いつの時代でも神が求めるものは信仰です
キリストを信じる信仰にローマ人もユダヤ人もなんの区別や差別はありません。社会的な地位やこの世的な権力の違いも何の意味ももちません。尊いのは「愛によって働く信仰」であり、「信仰は神のことばを聞くことから、そしてキリストのことばに従うことから」始まります。キリストのことばに従うのは、イエス様が権威をもっておられるからです。つまり、イエス様のことばへの信頼こそ、「大きな信仰を見たことがない」(マタイ8:8)とイエス様が認めておられる信仰といえます。
聖歌539番「見ゆるところに寄らずして信仰によりて歩むべし。何をも見ず、聞かずとも、神の約束に立ち、歩めよ、信仰により、歩め歩め、疑がわで、歩めよ信仰により、見ゆるところにはよらじ」は、
まさにこのような信仰を歌った讃美歌です。
みことばへの信頼は多くの場合、私たちに良きものをもたらします。多くの場合それは「成功体験」として表現されます。祈りがきかれた。病気が癒された。試験に合格した。待望の赤ちゃんが誕生した。苦難や試練に勝利した。事業が軌道に乗ったなど。「みことばを信じ、約束に信頼し、待ち望んだ結果です」との感謝の証しのことばをしばしば耳にし、私たちは共に喜び合います。しかし、みことばへの信頼は、私たちが人生の出来事において成功した場合だけではなく、失敗した場合や、敗北した場合に、あるいは挫折を経験するような場合にこそ、いっそう力強く、静かに深く働き、信じる者を支えることができるのです。むしろこれこそが「みことばに信頼する信仰の力」といえます。
オリンピックが始まり期待通り金メダルを獲得した選手もいれば、金メダル候補といわれながら予選で失敗し敗退してしまう選手もいます。勝利と敗北が織りなす競技は人生の縮図とも言えます。失敗体験や挫折や試練を乗り越えてそれでもチャレンジしていくアスリートの姿に、観客はメダルの色の美しさ以上に、人間の美しさを覚えて感動を覚えます。かれらのバネは「悔しさと涙」ですが、私たちクリスチャンたちの力は「みことばへの信頼」と言えます。
今から150年ほど前、アメリカで南北戦争の時代に、南軍の傷ついた無名の1人の兵士が療養所の壁に描いた詩があります。
「大きなことを成し遂げる為に、力を与えて欲しいと神に求めたのに謙虚さを学ぶようにと弱さを授かった。偉大なことができるように健康を求めたのに、より良きことをするようにと病気をたまわった。幸せになろうと富を求めたのに賢明であるようにと貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに得意にならないようにと失敗を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意にそわぬものであるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。私は最も豊かに祝福されたのだ」
何と深い祈りでしょうか。ここには成功体験ではなく失敗体験、勝利の体験ではなく敗北の体験がありのまま綴られています。けれどもむしろそこにこそ、神に信頼する人間の美しさといのちの力を見出す思いがします。
イエス様はイスラエルの中に信仰を求めましたが見出せませんでした。ところが異邦人の百人隊長の中にその信仰を見出し喜ばれました。父なる神様は、この時代においても同じく、御子イエスキリストのことばに信頼し、キリストの権威を信じ従う者を求めておられます。 「主よ、おことばをください」と、主イエスに信頼して歩む生涯でありますように。