【福音宣教】ほかの方を待つべきでしょうか

2021年8月8日 ルカの福音書7:17-23

さて今日の箇所で再びバプテスマのヨハネが登場してきます。彼は歴史の中で最後の預言者と呼ばれ、イスラエルが待ち望み続けたメシヤの到来を前に、道ぞなえをするために神様から遣わされました。怖いもの知らずで、ずばずばと物を言い、不信仰な群衆に向かっては「まむしの末たちよ、良い実を結ばない木は切り倒され火に投げ込まれる」(37-9)と迫り、悔い改めのバプテスマをヨルダン川で授けていました(3)。群衆がこの方こそ「メシア」ではないかと騒ぎ立てた時、「その方の靴の紐を結ぶ価値さえない。その方はあなたがたに聖霊と火とのバプテスマを授ける」(316)ことができると、預言者とメシアとの違いを明確に教えました。

さらに国主ヘロデが不法な結婚をしたり、悪事を働いていたことを厳しく糾弾したため、王と妃ヘロデアの猛反感と怒りを買い、ついに投獄されてしまいました(320)。

バプテスマのヨハネが投獄されている間に、イエス様はついに公にメシアとして神の国の福音を宣べ伝えはじめ、メシアとしての権威を示すために「病気を癒し、悪霊を追い出し、盲人の目を開く」(21)という数々のみわざを行われました。ナインの村ではついに一人息子を失ったやもめを深くあわれみ(「内蔵する」という動詞)、息子を死からよみがえらせ母親の手に戻し、彼女を絶望の淵から立ち上がらせました。これらはすべて救い主の栄光の御業の先取り的行為でした。

愛する人の死を前にただ涙を流すしかない無力無能な人類に対して「もう泣かなくてもよい」と力づよく語りかけ、目から涙をぬぐい取ってくださる(黙214)救い主が今、ここに立ってくださっているのです。棺を担いで墓場に向かう死の行進を立ち止まらせてくださったのでした。ご自身の十字架の死をもって罪を赦し、ご自身の復活をもって、死の縄目・束縛から完全に解き放ってくださったのです。

1.待つべきお方はほかにおられますか

およそ1年間と推測されますが、バプテスマのヨハネは投獄されていたために、すでにガリラヤ地方の町と村のいたるところでイエス様が、神の国の福音を宣教し、神の国のご支配と権威をもって、人々を苦しめている悪霊どもを追放し、神の国のいのちをもって病を癒し、人々を救いに導いておられるご様子を直接見聞きすることができませんでした。牢獄を訪れる弟子たちから、断片的な報告を耳にするしかありませんでした。ですから弟子たちをイエス様のもとに遣わして「私たちが待つべきお方はほかにおられますか」と尋ねさせました。

ここで疑問が生じます。バプテスマのヨハネといえども投獄され、イエス様が助けにも来ない、このまま獄中で死を迎えるのだろうかと不安になり、イエス様は本当にメシアなのだろうかと疑いだしたのではと・・。人間的な側面に同調しがち人々は「そりゃそうでしょう、バプテスマのヨハネといえども人間ですから、置かれた状況が厳しければ疑いもすれば、つまずきもしますわな・・」と。ところがバプテスマのヨハネはそんな腰砕けの人物ではありませんでした。つまずいたのはヨハネではなくヨハネの弟子たちでした。ですからヨハネは弟子たちをイエス様のもとに遣わし、イエス様から直接、答えを聞かせようとされたのではと多くの注解者たちが考えています。私も同感です。「私たちが待つべきお方はほかにおられますか」と尋ねた弟子たちに、イエス様は「自分たちの見たこと聞きたことをヨハネに伝えなさい(動詞はすべて強い覚悟や決心を現わす不定過去)」(722)と明確にお伝えになったのでした。イザヤ書に記されているメシア預言の御業(見える、歩いている、きよめられている、生き返っている、これらの動詞は現在形)(イザヤ611)が今ここで、キリストにおいて実現されているからでした。

こうして、獄中のヨハネとガリラヤの町々村々で宣教の御業を続けるイエス様とはしっかりとつながっていたのでした。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ120-30)と群衆にナザレのイエスを指し示したヨハネに、なんのブレもありませんでした。獄中にあっても彼の信仰はイエス様を見続けていたのでした。

2. わたしに躓かない者は幸いである(23

「つまずく」と訳されたギリシャ語は「鳥を捕まえる罠」という意味です。ですから大きな落とし穴ではありません。大きな岩につまずく人はいませんが、小さな小石や段差で人はつまずいてしまいます。直訳では「つまずかせられないものは幸いである」と受け身の表現になっています。つまずかせる悪しき者が存在しているのです。それはイエス様を信じて歩む信仰を妨げる存在であり、サタンの働きです。サタンが信仰の道にさまざまな障害、おもわぬ小さなつまずき、ひっかけ、落とし穴を用意してくるのです。

聖書そのものもこの世的に言えばつまずきの小石で満ちています。興味をもって開いた聖書冒頭、なんとマタイ福音書は無味乾燥な系図から始まります。次いで処女降誕、受肉、十字架の死、3日後の復活、クリスチャンはこんな非科学的なことを信じているのか、信じられない!との声が聞こえてきそうです。しかも眠たい日曜日の朝の礼拝を毎週ささげるとは!!。年1回、クリスマスに行けば十分じゃないか、そんなつぶやきも聞かれます。考えればどれもこれも小さなつまずきとなりかねません。

サタンはイエス様にさえ3度も誘惑をしかけてきました。父なる神様は私たち一人一人を手のひらにその名を刻むほど(イザヤ4916)、髪の毛一筋さえ失われることがない(ルカ2118)と約束されるほど深い関心をもって愛してくださっていますが、サタンは私たち自身に興味などありません。ほっておいても罪の中で生まれ罪の内に滅んでいく存在にすぎず、なんの脅威も与えないからです。そのかわり、サタンは私たちの内の「信仰」を妬み、これを奪い取ろうとするのです。なぜなら信仰は神様からの罪人に対する「恵みの贈り物」であり、サタンはこれを決して受け取ることができないからです。妬みの対象だからです。荒野でのサタンの3度目の試みに対してイエス様は「引き下がれ、あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよと書いてある(申命記613)」と決定定なことばをもって退けたことからも明らかです。

確かにバプテスマのヨハネにとって獄中での厳しい生活は大きな苦難でした。ヨハネの弟子たちにとっても「なぜメシヤは預言者を助けに来ないのか」大きな疑問だったことでしょう。けれどもヨハネは、「見よ、神の小羊」と証しした主イエスキリストを信じ、崇め、このお方によって「神の国」がすでに到来していることを大いに喜んでいたのでした。

「義のために苦しむことがあっても幸いです。恐れたり心を乱したりしてはならないただ、心の中でキリストを主と崇めなさい」(1ペテロ3:14-15)。崇めるとは、ただキリストを見つづけなさいという意味と理解できます。薄暗い獄中の中にあっても、ヨハネはキリストの栄光を仰ぎ、彼の心はキリストの光に照らされていたのではないでしょうか。

つまずきそうなとき、心の中で私はこの歌をしばしば口ずさみます。ただ主を崇め、ただ主をたたえること、これこそが私たちを勝利に導く力ではないでしょうか。

新聖歌427番「ただ主をあがめ、ただ主につかえん。ただ主を頼りて、ただ主をあおがん。たたえよただ主を、主は救い主。きよめ主、癒し主、王の王、主の主」          以上               

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