【福音宣教】 神の国で小さな者たち

2021年8月15日 ルカの福音書7:24-30

序 本日は終戦記念日です。戦後76年が経ち歴史が風化されていくことが懸念されています。「平和の祈り」が各地で捧げられますが、私たちも今朝、ともに祈りましょう。

ヨハネの弟子たちが帰ったあと、イエス様は群衆に問いかけました。

あなた方は1年前、荒野に出ていき誰を見ましたか。風に揺らぐ葦を見に行ったのですか? それとも高貴な服を身にまとった上流階級の王や貴族を見に行ったのですか?。そうです、あなたがたは預言者を見に荒野に出かけ、彼のことばに耳を傾け、ヨルダン川に身を沈めて悔い改めのバプテスマを受けたのではありませんか?と、問いかけました。

なぜ問いかけたのでしょう。預言者ヨハネは投獄されおおよそ1年経ちました。移り気な群衆はもうヨハネのことなど忘れかけているからです。世の国王の権力によって投獄され獄中生活を送り、その命は風前のともしびとなっています。群衆の中には「ヨハネは本当に神が遣わされた預言者だったのだろうか? 自分たちが受けたバプテスマに意味があったのだろうか?」そんな疑問や不信感が生じてきていた可能性があるからです。

風に揺らぐ葦とは、川岸の風景ではなく、「弱さ」の象徴ともされています。まさに風前の灯のような状態で獄中にとらわれているバプテスマのヨハネを指しているとも考えられます。

1. ヨハネよりも大きい人物はいない(28

これは最上級を表現するユダヤ的用法ですから、「ヨハネはもっとも偉大な人物である」という意味になります。イエス様は最大限にヨハネを評価していたのでした。群衆の評価はいとも簡単に覆されます。移り気でまわりに左右されてしまい、右に左に揺れ動きます。その中でイエス様だけはヨハネの果たした役割を覚え、神から遣わされた預言者として、最も高く評価しておられるのです。イエス様自身も待望された「メシア」「王の王」として群衆の大歓迎の中でエルサレムに入城しましたが、1週間もたたないうちに「イエスを殺せ、十字架につけろ」との非難と罵声をあびせられました。人の心もことばも移り変わっていきます。そこに根拠を置くならば、その人生はいつも「砂上の楼閣」「岸辺で風に揺さぶられ折れかけている葦」にたとえることができます。あらためて神のことばに立つ者(ルカ648)とされましょう。

2. 天国で最も小さな者もヨハネよりは大きい(28

天国で最も小さな者とは、キリストを信じ、救いを受けたクリスチャンたちです。彼らはは、天国では偉大な預言者ヨハネよりもはるかに大きいと、イエス様は励ましてくださっています。今、イエス様のまわりに座って話を聞いている群衆は、「民衆」「収税人」といった人々です。この世的な基準からみれば、力もなく貧しく身分の低い、「罪びと」と、さげすまれた人々でした。王や貴族やパリサイ人や学者たちは、預言者ヨハネのことばに耳を傾けることはありませんでした。イエス様を信じようとはこれっぽちも思っていませんでした。彼らは「神のみこころを拒んだ」(30)いな激しく「拒絶した」人々でした。

イエス様のことばを聞き、みわざを見て「救い主」と信じ、受け入れた人々は、神の前に「正しい」とみなされ、「義と認められた」人々です。天においては、偉大な預言者ヨハネにもまさって大きな存在とされています。これが私たちを見ておられる神様の視点です。

クリスチャンの中に自己肯定感が低いまま、悩んでいる方がおられます。あなたはいかがでしょうか。自分などたいした価値がない、自分など何の役にも立たない、自分など誰からも愛されないなどなど・・。ほかのクリスチャンがキラキラ輝いてまぶしく映ってしまうのです。自分に自信満々で傲慢な人はそもそも教会に行ってみようとはあまり思わないでしょうから、自己肯定感が低い傾向にある人がそのことで悩んで教会に行ってみようと思うのは事実かと思われます。教会に来て聖書を学び、神様を知り、この世の評価と神様の評価が全く異なることを知って驚かれます。世は「行い(DOING)を見て」、無価値、無用、役立たずと評価し、低くみつもろうとします。一方、神様は「存在(BEING)を見て」、愛していると喜んでくださるのです。知っていることと実際に体験していることとの間にはギャップが生じるものですが、それゆえに、あなたは「神の目には尊い存在」とされていることを確信しましょう。信じ続けるのです。信じ続けるときに真理はいのちとなるのです。

イザヤ4916 「手のひらにあなたの名を刻んだ」とあります。あなたの名はイエス様の十字架の血で神の掌にその名が刻まれているのです。人は愛する人の名を刻むものです。神様は御子イエス様を犠牲にしても惜しくないと思うほどあなたを愛してくださいました。ですから神様があなたをお忘れになることなどありえません。

イザヤ434 「私の目にあなたは高価で尊い」とあります。

エレミヤ313 「限りない愛(永遠の愛)をもってあなたを愛している」とあります。

カトリックのシスタである鈴木秀子さんが、「ほめられることを期待するのでなく、自分で自分をほめればいい」と語っています。自分で自分をほめることができる人は幸せな人ですが、多くはいません。自分で自分をほめるには、神様の視点で自分を見ることを学ばなければなりません。神様が認め、ほめ、評価してくださっている自分を、自分でけなして、こき下ろすことほどつまらないことはありません。あなたの目ではなく、神の目からあなたを見ましょう。信仰とは、神様の目から、この世界と自分を見ることなのです。

パウロは神様の祝福について「永遠の昔から、私たちをキリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです」(エペソ14-5)と、教えています。

3. 女からではなく御霊によって生まれた者

イエスを信じた者たちは、「女から生まれた者」であるだけではなく、「御霊によって生まれた者」(ヨハネ33)です。私たちは確かに母の胎からこの世に生まれ出ましたが、それだけではありません。キリストにあって新しく生まれたものであり、キリストに属する者とされ、新しい人とされているのです。この世に国籍を持つ者ですが同時に、天に国籍を持つ神の民の一人ともされています(ピリピ320)。

バプテスト教会はイギリスの宗教改革の中から生まれました。ルターは「福音」を再発見しましたが、バプテスト派は「教会」を再発見したといわれています。「新生した者たちの教会」これがヨーロッパを中心とする「国教会」に代わる新しい偉大な発見となったのでした。私たちも、御霊によって新生し、キリストの御国に誕生した、神の民として、地上の日々を歩み続けてまいりましょう。女から生まれた者たちの世界から、DOINGによる価値や評価そして競争はなくならないことでしょう。しかし、御霊によって生まれた者たちには、御霊によって生きる新しい生き方が用意されています。

「だれでもキリストの内にあるならその人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去ってすべてが新しくなりました」(2コリント517           

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