2021年8月22日 ルカの福音書7:29-35
イエス様は、預言者の中でもバプテスマのヨハネほど偉大な者はいないと民衆に教えました。さらに預言者ヨハネの教えを受け入れ、そのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と証したメシアであるイエスを信じ受け入れた者たちは、天の御国ではそのヨハネよりもさらに優れたものであると励ましました。イエス様を救い主キリストと信じ受け入れた者たちは、この世では貧しく力のない人々、そしてもっともローマ政府に仕えて私腹を肥やしている売国奴・罪人呼ばわりされていた収税人たちでした。ユダヤ教の指導者たち、律法の専門家たち、王宮で暮らす王や貴族たちはイエス様に対して関心も示さず、むしろ反発を強めていました。こうした構図は2000年前も今も、変わらないといえます。
パウロは第1コリント1:26―30で、この世の愚かな者、弱い者、無に等しい者を選ばれたと教えている通りです。この世で選ばれた者ではなく、「神に選ばれた者」これこそがクリスチャンの冠ではないでしょうか。
1. 笛吹けど踊らず(32)
イエス様は神が遣わされた預言者を拒み、最後に神が世に送ってくださった救い主キリストを拒む人々のことを、「この時代の人々を何にたとえることができようか」(31)と問いかけ、子供たちが広場で結婚式ごっこ、お葬式ごっこをしている姿(32)にたとえました。結婚式の喜びの笛を吹いてもだれも反応しない、お葬式の悲しみの歌を歌っても誰も悲しまない。共感しない。無関心・無反応どころか、かえってはむかってくる始末です。バプテスマのヨハネが禁欲生活をしていれば、「悪霊につかれている」(23)、イエス様が分け隔てなく愛をもって福音を語れば「食いしん坊の大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」(34)とあしざまにけなし、貶める始末です。
「笛吹けど踊らず」という原因として、2つあげることができます。
1)この世の人は表面しかみないという点です。
うわべ表面だけですべてを判断してしまう。これは肉の性質の特徴です。めんどくさいことは嫌なのです。ですからぱっと見てぱっと判断してぱっと結果を出して切り上げたり切り捨てたりするのです。いわゆる「レッテル貼り」という現象です。自分の価値観や自分の経験という小さな額縁から、すべてを見ているのです。本当の愛があれば、もう少し深く知ろう、そのことばの奥を理解しようと、こころを寄せることをします。相手の世界や価値観を尊重しようとの思いの欠如を意味しています。
うわべの判断とそれにも基づく誤解、偏見、中傷批判。これは心を深く傷つけます。
先日、ある大学でカウンセラーになろうと学んでいる学生たちに講義をする機会が与えられました。アンケート結果を見せてもらいました。「カウンセラーは最後に諦める人」という河合隼雄先生のことばを大事にされている小出さんのことばが印象的でしたという反応が多く書かれていました。学生たちにそのことを学んでほしかったからです。
イエス様は裏切ったユダに対しても最後まで彼の救いを願い「友よ」(マタイ26:50)と呼びかけておられます。3度も拒んだペテロに対しても「愛するか」(ヨハネ21:15)と呼びかけています。このように、イエス様は「最後の極みまで弟子たちを愛され」(ヨハネ13:1)たのでした。
この世はうわべを見て、はやばやと結論をくだしますが、神様は心の奥をご覧になり、理解し、愛してくださるのです。
「(私は)人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」(1サムエル16:7)
2)神のみこころを知ることは難しいという点です。
この世の人々にとって、神を敬うことよりも、神をけなしあしざまに言うことのほうが楽しみなのでしょう。神などいない!と嘘ぶくほうが自分が偉そうに思えるのでしょう。これらはみな、堕落した天使であるサタンの思いそのものです。
クリスチャンでさえ、神様のみこころを知ることが決して容易ではないことを知っています。この世の人々にとって、神さまのみこころなどはほとんど関係がありません。自分の欲が中心ですから、うまくいけば自分の力がすぐれていたと高ぶり、うまくいかなければ人の所為にするか、運がなかったとあまり自分が傷つかないようにけりをつけようとします。時々、神社でお遊びで「おみくじ」を引いて楽しむ程度です。
ところが神の子たち、クリスチャンたちは、神の御旨はいずこにありやと、悩み、苦悩します。旧約聖書は教えています。神の思いは、人の思いよりも高く、深く、多重多層でり、秘密が多く含まれていることを。
「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)
「私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。」(詩篇77:12) これが詩篇の記者の知恵であり祈りでした。
2. 正しさは神の子どもたちが証明します(35)
イエス様はご自分のことばと御業が真実であることを、信じ従う弟子たちが、そしてのちの時代の無数のキリスト者たちが、神の子どもたちが生活の中で証明してくれるであろうと宣言されました。どういうことを意味しているのでしょうか。
イエス様を救い主と信じて、神の子どもとされた者たちは、先週学んだように「女から生まれた者」たちであるだけでなく、「御霊によって新しく生まれた」(新生)者たち(ヨハネ3:3)です。キリストの名によって水のバプテスマを受け、御霊によって新しく誕生し、キリストの御霊といのちをうちに宿す(ロマ8:9)者となりました。
神の御子イエスキリストの御霊を宿しているから、父なる神のみこころを知ろうと求め、御霊に導かれてみこころに生きようと志すのです。そこには忍耐と祈り、すなわち神様への信頼と待ち望みが不可欠となります。そしてその先に、「信じるならば神の栄光を見る」(ヨハネ11:40)という究極のゴールが用意されています。
神様のみこころが天よりも高く、海よりも深いのであれば、それは大海原をヨットで航海するようなものとたとえることができるかもしれません。日本から出発してヨットで太平洋を出発してアメリカのサンフランシスコに到着するようなものです。目的地は明瞭です。しかし陸上のように道が備えられているわけではありません。刻一刻一刻変化する風の向き、海流、天候の中で、ときには嵐に見舞われ、病やけがに倒れながらも、帆を操り、あるいは帆をやすめて、長い航海を続けます。
この世はうわべを見ます。そして一番手前のゴールがすべてかのように錯覚させます。しかし、神様は心を見ます。そして一番奥のゴールへと導かれます。
神の子どもたちが、神のことばとみわざが真実であり、正しかったと、感謝して神をほめたたえることができるように、必ず導かれることでしょう。イエス様のお約束だからです。
「正しさは神の子どもたちが証明します」