2021年8月29日 ルカの福音書7:36-50
今日の箇所は有名な出来事ですべての福音書に記されています。ただしマタイ・マルコ・ヨハネの福音書では女性の名がベテニア村のマリアで、イエス様の受難を前にした葬りの準備のために高価なナルドの香油の壺を割って、イエス様に注いだとされています。ところがルカの場合は、「一人の罪深い女」(37)、「もしイエス様が預言者ならこの女が何者かわかるはずだ」(39)とつぶやかれているようないかがわしい女性であり、おそらく遊女であったと推測されます。ある時、律法に厳格なパリサイ人であるシモンがイエス様を宴会に招待し一席設けました。仲間や著名人たちも多く集まっていたことでしょう。そこに、突如、この女性が現れたのですから、一同は何事かとびっくりしたことでしょう。その上、この女性は客人であるイエス様の足元に座り、涙をボロボロ流し、長い髪の毛で涙をぬぐい、何度も口づけし、さらに石膏の壺に入った香油を注いだのでした。彼女もイエス様も何も語りません。黙ってイエス様は彼女の行為を喜んで受け入れたのでした。
イエス様が彼女に語った2つのことばに着目しましょう。
「多く愛した者は多く赦される」(47」と「あなたの信仰があなたを救った」(50)
1. 多く愛した者は多く赦される
赦しをいただくためには神を愛さなければならないと誤解されやすい表現です。もし、神を愛すれば愛するほど罪の赦しも大きいと考えてしまうなら、それは「福音」ではなく「行いによる救い」へとミスリードしてしまいます。
そこで誤解を避けるためにイエス様はわかりやすい譬えを語られました。「50デナリ(50万円)と500デナリ(500万円)の借金を返せなかった人がいました。ところが、お金を貸した人がその負債を二人とも全額免除にしてくれました。この場合、さてどちらの人が多く愛するだろうか」と。答えは明らかにたくさん赦してもらった人です。
ユダヤの国では「愛する」という動詞は、「感謝する」と同じ意味をもつそうです。したがって感謝の気持ちを現わす時には「祝福する」「愛する」という言葉が用いられたそうです。
つまり、「思いもよらない大きな赦しをいただいた時に、どちらの人が深く感謝するだろうか」という問いかけでもあったのです。純粋な感謝の心は、罪の赦しの恵みの深さを知っているから生まれてくるというのです。
イエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人である。私は正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです」(ルカ5:31-32)と語り、罪人呼ばわりされている人々を御もとに招きました。彼女は確かにいかがわしい生業で生きている女性でした。自分の罪深さや、愚かさを誰より深く自覚していました。それに反して、裕福で立派な暮らしをしているパリサイ人たちや町の著名人たちはどれほど自分の罪深さを自覚していたことでしょう。
遊女は周囲の人々から軽蔑されるような女性たちでした。どこから彼女の人生が転落してしまったのかわかりません。昔の時代、貧しい農村の娘たちは女中奉公や最悪の場合には遊郭に身売りされたそうです。日本ならテレビドラマ「おしん」の世界や、フランスの文豪ビクトル・ユーゴの作品「ああ無情」の里親に預けた赤子の生活費のために売春婦にまでなったファンティーヌなどの文学作品があるほどです。
イエス様を宴会に招いたシモンは盛大な料理を用意しましたが、客人であるイエス様の足を水で洗うことも、歓迎の接吻をすることも、頭にオリーブ油をぬって迎えるということをしませんでした。心からの歓迎感謝の行為がみられませんでした。ところが彼女は自分にできる精いっぱいの愛の行為つまり感謝の気持ちを現わしたのでした。
ある先生は、「実は彼女はすでにイエス様に出会い、罪の赦しのことばを聞いていたのではないか、あるいはイエス様のメッセージをどこかで聞いて、自らの罪の生活を悔い改め、赦しを確信していたのではないか。そしてその感謝をあらわす機会をついに見つけたのではないか」とも考えておられます。このような宴会が催される場合、貧しい一般の方も比較的自由に会場に出入りすることができたそうですから、あり得る話だと思います。
フランシスコ訳では「彼女の多くの罪が赦されたのは、彼女が多くの愛を示したことでわかる。少しだけ赦される者は少ししか愛さない」と、赦しが愛の業に先行していることが示されています。 そうです! イエス様にある赦しと救いを多く得た者は、多く愛し多く感謝をあらわさずにはおれないのです。
京都府綾部に本社がある下着メーカー「グンゼ」の初代社長・波多野鶴吉さんは、若い頃京都に遊学し親の財産を食いつぶしてしまい、梅毒にかかり鼻が歪んでしまうほどの重い症状に陥りました。自殺を考えるようなどん底の中で教会を訪ね、「あなたでも救われます」との牧師のことばを聞いて、イエス様を信じました。新生した彼は熱心に働き、製糸工場の経営を委託され大成功を収めました。その秘訣は、悲惨な環境の中にあった貧しい女工さんたちをわが娘のように愛し、工場の中に女学校をつくり教育を与え、病院まで建てて健康を守り、工場付きのチャプレンを通して聖書のメッセージを語り、彼女たちの健康と魂を支えたからでした。「女工哀歌」で知られるような劣悪な環境下、暴力と病で多くの女工たちが苦悩する時代でしたからなおさらでした。波多野さんは、多く赦されたからこそ、多く愛することができたのでした。多く赦されたからこそ、感謝が満ちたのでした。
2. あなたの信仰があなたを救った
これも誤解をしてしまうかもしれないことばです。私たちの熱心な「信仰のわざ」によって、神様もいたく感心して「よしよし救ってやろう」といってくださるのではありません。彼女は愛したから救われたのではありません。信じたゆえに救われたのです。罪の赦しを信じたゆえに救われたのです。だから多く愛することができたのです。福音的な順番を正しく理解しましょう。
大事なのは「信仰」です。それは「イエス様への信頼」「イエス様のことばへの信頼」と置き代えることができます。
5章では友人に寝床に乗せられたままイエス様のもとへ屋上から釣り下ろされた中風の病人がいました。彼らは「神の御子イエス様ならきっと癒してくださる」との信仰をもっていました。イエス様はその信仰をご覧になり(20)、「見よ、あなたの罪は赦された」と「病の癒し」に先だって、永遠のいのちに通じる「罪の赦し」を宣言されたのでした。もしこの時、多くの群衆に交じってあの罪深い女性がその場に居合わせ、すべてを目撃していたとしたら・・・と、私は楽しく想像しています。
7章では「ただおことばをください。そうすればしもべは必ず癒されます」(7:7)と、異邦人にもかかわらず百人隊長は、イエス様の権威あることばに信頼しました。「このような信仰は見たことがない」とまでイエス様を感心させました。イエスキリストのことばは真理でありいのちなのですから。
信仰は信頼する心、そのものです。イエスキリスト、このかたこそ神が約束された救い主であり、神の御子であり、イエス様のことばは神の国の権威といのちにあふれていることを信じ、信頼し、委ねて生きることを意味します。神への信頼は人生の力です。