2021年9月12日 ルカの福音書8:5-15
イエス様はたとえ話が得意でした。イエス様の教えの1/3以上は譬えであり、その数も40種類の及ぶそうです(聖書講解p61)。たとえ話の中には大切なメッセージが隠されています。ですからしっかり耳を傾けて聞こうとする者には意味が明らかにされてきます。
種を蒔く人が種まきに出かけ、種を蒔いたところ、風に飛ばされある種は道端に、ある種は土が薄くてかたい石が多い石地に、またある種は茨が茂る場所に、そしてある種は良く耕された柔らかな土の上に落ちたというのです。几帳面で何事にも丁寧な日本人の畑仕事と違ってユダヤの国の種まきは大まかです。日本なら種を苗床で育て、ある程度根を下ろし芽が出てきたらいよいよよく耕して柔らかくした土にさらに肥料をしっかり混ぜ合わせ、そこに一本ずつ植え、水を適量注いで育てていきます。ところがユダヤの国では、強い風の吹く日に、農夫は種入れ籠に種を入れ、風に向かって種をつまんで蒔きます。ですから種はどこへとんでいくのかわかりません。風まかせです。
それぞれの種がどうなったか、10-15節で、イエス様が解説しておられます。
1. 種とは神のことば
蒔かれた種は「神のことば」です。ですから種を蒔く人は、神のことばを語る人を指します。イエス様ご自身、そしてイエス様の弟子たち、その後の時代のキリスト教会の宣教の働きと理解できます。さらにこの譬えの目的は「神の国の奥義を知るためです」(10)とイエス様が明らかにしておられます。奥義は複数形ですから、神の国の恵みの豊かさを教える多くのことばを意味します。神の恵みのことばを聞こうとしない者、聞こうとする者、そして中途半端な形で終わってしまう者の様子が語られています。
2. 4つの畑に落ちた種の行く末
1)道端に落ちた種は人に踏みつけられ、ひしゃげてしまい鳥が食べてしまい、最後は糞になってしまいました(5)。12節でイエス様が解説しています。みことばを聞いたが悪魔がみことばを持ち去ってしまった。つまり、神のことばになんの関心も興味ももたず、なんの意味もないと思っている人を指しています。そもそも神などは存在しないと固く信じている人々ですから、永遠のいのちや永遠の神の国など頭から否定しています。
2)岩の上に落ちた種は土が薄く水分を蓄えることができないため芽が少出たけれど、残念ながら枯れてしまいました。13節でイエス様が解説しています。喜んで聞き、しばらくは信じるけれども「根がない」(13)ので「試練の時に身を引いてしまう」(13)人を指しています。キーワードは「根がない」、根を下ろすことができない点にありました。
「根っこの力」は想像以上です。ひと昔前、ど根性大根がブームになりましたね。大阪市の梅田駅前の陸橋のアスファルトの割れ目から大根の葉が伸び、15センチほど白い部分も地上に出て来て一躍有名になったそうです。教会の前庭のブルーヘブンの木も、真下に大きな土管が入っており根がそこにあたるたびにかれてしまっていましたが、今の木はとうとう根が土管を回り込んでしまったようで、青々と茂っています。
信仰の価値は「試練の時」に真価が問われます。み言葉の根がしっかり下ろされているかどうか。植物の根でさえアスファルトを破るほどのエネルギをもたらします。ましてやみ言葉がしっかり根をおろしていればどれほどの強さを示すことでしょう。
「キリストのことばをあなたがたのうちに豊かに住まわせなさい」(コロサイ3:16)
3)茨の地に落ちた種は成長したものの茨が生い茂ってふさいでしまった(7)。イエス様の解説によれば「この世の心遣いや富や快楽によってふさがれてしまい、日光が十分当たらず、風通しも悪く、養分が茨に多く吸い取られてしまったため、実が熟するまでにならない」(14)人を指しています。
茨の地は想像しにくいかと思いますが、教会の横の竹やぶの空き地を思い起こしてください。木や竹藪を伐採して整地したものの半年もたたないうちに背丈ほどの雑草に覆われて大変な状態になっています。
「この世の心遣い」は「人間関係に過剰に反応し、神のことばよりも人間のことばを優先してしまうこと」です。世間体や人のことばを気にするようになり、顔色を窺うようになり、 クリスチャンであることを隠すようになります。「この世の富や楽しみ」とは、まさに世の楽しみごとによって多くの時間をとられてしまい、教会へ行く時間が削られ、聖書を学ぶ関心が薄れてしまうことです。若い人にとって社会人になればお給料がもらえる、いままでのお小遣いから自分で自由に使える多額のおカネが入る。遊びたくてしかたがない。放蕩息子や放蕩娘の状態に陥ってしまう。この世に「埋没してしまう」のです。
4)良い地に落ちた種は100倍の実を結ぶことができました。イエス様の解説によれば、「みことばを聞いて守り、よく耐えて実を結ばせる」人を指します。
キーワードは「よく耐えて」にあります。神のことばはインスタント食品ではありません。3分待てば食べられるスピード食品ではありません。みことばが実を結ぶには時間がかかります。その忍耐の期間に「悪魔、試練の時、生活の心遣いや富や快楽」が常にくりかえしやってきます。そうした試練の中で「信仰は成長し強められます」。
4つの畑のたとえ話は初めからそのような種類の人物がいるので、良い地の人を見つけて神お言葉を語ろうという趣旨の教えではありません。確かに求道者の方々を見ると、心ここにあらずの聞き手、熱心だが長続きしない聞き手、こころがわさわさ落ち着かない聞き手、最初からしっくりと聞き入っている聞き手などのタイプの方を見かけますが、外側でレッテルはりをしてはいけないと思います。
4つの畑は私たち自身の中にも存在しているからです。礼拝に出席していても、まったく心に入って来ないようなとき、本当かな?と疑ったりするとき、若気の至りで熱心だったが今は冷めてるなとみ言葉と自分との間に距離を感じてしまうとき、あのことこのことで追われて身体は教会の席の上に置いているものの、こころはほかの思いに飛んでいってるな、早く礼拝を終えてあのことを片付けないといけないな・・と半分もう腰が浮き上がっているような時もあります。
まとめます。このたとえ話は、神のことばを受けとめる人々の意識を示しています。それはクリスチャンたちにとっても同じです。
たいへん興味深いことに、英語訳聖書では、道端の傍に(パラalong)、石の上に(エピon)、茨の中に(エンメソ-among)、良い地に(エイスinto)と使い分けられています(聖書講解p61)。日本語ではみな「
に」のことばですが、使われている前置詞が異なります。 繰り返しますが、これらの前置詞の違いは神のことばを受けとめる意識を示しています。神のことばを心の土深くに「into」して、受けとめ、黙想し、信頼し、歩んで行きたいものです。 悪魔の誘惑、試練の時、生活の心遣いや富や快楽に埋没しそうな時こそ、「心の植え付けられたみことばを素直にうけいれなさい。みことばにはあなたがたのたましいを救う力があります」
(ヤコブ1:21)と信じぬきましょう。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)