【福音宣教】 ひかりを輝かせて歩む

2021年9月19日 ルカの福音書8:15-18

先週はイエス様が語られた「4つの畑に落ちた種」のたとえばなしを学びました。それぞれの説明をされた結びのことばとして、イエス様は「だから聞き方に注意しなさい。持っている者はさらに与えられ、持っていない者は持っていると思う者も取り上げられるからです」(18)と勧告しています。

1. 取り上げられるのはなにか(18

信仰が弱っているときや体調がすぐれないときなどは、マイナス化思考に傾いてしまいやすく、こういうイエス様のことばを聞くと、ますます落ち込んだり沈んだりしがちです。なぜなら、「信仰までも取り上げられ、永遠のいのちまでも取り去られてしまう」とまで一気に、思考が飛躍して極端な結論にいたってしまうことがしばしばあるからです。このたとえ話の中の中心は、「神のことば・つまり神の国の奥義」についてです。複数形で表現されている奥義とは「神の国の隠された恵みの数々、その豊かさ」を意味しています。そして、神の国の恵みの豊かさは、神の国のメッセージを聞く態度と深くかかわります。

まじめに学校で授業を受け、先生のことばを真剣に聞いている学生と、居眠りしたり、ほかのことを考えて授業に集中していない学生とは、やがて知識や理解力、応用力に大きな差が出てきて、最後にはわからなくなってしまうことと似ています。聞けば聞くほど、学べば学ぶほど、知識も世界も豊かになり楽しくなります。中学で英語を始めて学んだ時、面白くて楽しくて自分でも進んで勉強して外国の人と文通までしました。ところが数学たるやぜんぜん面白くなくさっぱりで高校のころには「微分積分は何分にもわかりません」状態になってしまいました。でも数学が悪くてもそれだけで学生失格、高校締めだしにはなりません。ちゃんと卒業証書には名前と写真が載っています。

取り上げられるものとは、神を喜び、神の国のめぐみを味わうその喜びの程度といえます。英語が好きな人はどんどんその喜びと楽しみが増し加わります。数学が好きな人は数学の世界の奥深さと楽しみをますます愛するようになります。音楽が好きな人はますます音楽の世界に没頭していくことができます。ところが関心がなければますます神の国の喜びや楽しみは薄れ、この世の表面的な刹那的な楽しみで心を満たしていくことになります。茨の地に落ちた種のようにこの世のことで「ふさがれてしまい」、実が結べないのです。

繰り返しますが、イエス様を信じることによって得られた「永遠のいのちと国籍」は奪われることはありません。イエス様が十字架でいのちをかけてまで愛してくださった私たち一人一人ですから、最後まで守り支え、私たちの信仰を保ち続けてくださっています。

「あなたの信仰がなくならないように祈った」(ルカ2232)。このことばは、イエス様を3度も知らないと言ってしまうペテロに対してイエス様が前もって語られた言葉です。ペテロへの約束は私たちへの約束でもあるのです。ヨハネ10:28-29も、変わることのない主イエスのお約束です。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」

2. あかりは燭台の上に置きます(8

急に燭台の話が出てきますので驚きますが、人はあかりを燭台の上に置いて周囲を照らします。あかりを覆い隠す人はいません。このことばは、聞いたみことばを生活の中で輝かせていくことを意味しています。「み言葉を聞くとそれをしっかりと守り、よく耐え、実を結ぶ」(15)ことの比喩的表現と言えます。

ここでも私たちは「光を輝かす。光の中を歩む」という結構、ポジティブなことばを聞くと、「そんな光の子じゃないし・・周りを照らすよりは暗くしてしまっているんじゃないか、私など光の子としての証しなどできていないし・・」と、再びネガティブな思いへと引き込まれてしまうことがあるのではないでしょうか。

イエス様はマタイ514-16で「あなたがたは世の光です。・・このようにあなたがたの光を人々の前で輝かせ続けなさい」と言われました。この時、前の句では「あなたがたは地の塩です」(13)と語っておられます。つまり、神の御子を信じて生きる者たちを「地の塩そして世の光」と呼んでおられます。二つの別々のことを言っているのではありません。塩も光も共通していることが一つあります。大量の塩を日常生活で必要とするケースもまずありません。目がくらんでしまうような強烈な光を日常生活で必要とするケースもほとんどありません。塩も一つまみで十分、光も小さくても十分役割を果たします。

つまり「小さな存在であっても尊い存在である」という中心的メッセージを明らかにしておられるのです。一つまみの塩が腐敗を防ぎ、味付けをします。太陽の光がなくても闇が深ければ深いほど1本のマッチの光、1本のキャンドルの光が闇を追い払い、周囲を照らし出します。小さくても少量でも十分に役割を果たしているのです。それが地の塩、世の光なのです。

あなたの中に深くとどまっているイエス様のことばが、自然に口に出るとき、あるいは手紙やはがきにやメールの中で記されるとき、聞いた人、見た人自身に思わぬ気づきや振り返りが生じたり、あるいは希望や励ましを得ることになります。全世界の水を海水に変えるほどの大きな塩の山や全世界を照り輝かせる太陽のような偉大な存在になることを神様はあなたに求めておられるのではありません。あなたが向き合っている目の前の人の「一つまみの塩」そして「小さなあかり」となることを神様は求めておられるのです。

ですから何を語ろうかと悩む必要もありません。聖霊が教えてくださるからです。へんな無駄話より、傍に寄り添うことのほうが大きな慰めや助けになることも多々あるからです。

大切なことはあなたが、みことばの中に喜びをもって生きていることではないでしょうか。イエス様を愛し喜んでいることではないでしょうか。

今、聖書学校では、東京神学大学理事長の斉藤正彦先生の著書「山上の説教に学ぶ 幸いへの招き」から学んでいます。先週は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」(マタイ543-47)を学びました。ユダヤ人にとって隣人は同胞ユダヤ人ないしはユダヤ教への改宗者を意味し、外国人、異教徒、収税人や遊女などの罪人は敵でした。愛の対象ではなく、憎むべき存在でした。ところがイエス様は「あなたの隣人とはだれか」と問いかけ、サマリア人のたとえ話を教えました。つまり、イエス様にとって「隣人を愛するとは、今まで隣人でなかった者の隣人になる」ことを意味したのです。最初からレッテルをはって区別することではありません。

先生は、デンマークの哲学者キルケゴールのことばを引用し、「私たちが神に祈った後、戸を開けて外に歩み出た時、最初に出会う人こそ、あなたの隣人なのです」と結んでいます。さらに、敵を愛することが難しいような時には、「たとい敵を愛することなどとてもできないとしても、自分が好きになれない人に挨拶することぐらいはできるはずだ。自分の兄弟だけに挨拶したところでどんなすぐれたことをしたことになろうか(マタイ527)。 嫌いな人、好きになれないような人にも、「おはよう」と挨拶することぐらいはできるはず」と記しています。そのような身近なところから、キリストのことばに生きることができるのです。

あなたのすぐそばに隣人はいるのですから。そして「忍耐して」、み言葉に生きる者はきっと「実を結ぶ」ことができるのです。

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